本日産経新聞の論 There's More Tha..
[団塊の段階的生活]

ブログよ、お前もか。

2012/8/25(土) 午後 4:10


    男はビンビン、生涯現役   強く硬く逞しく 
 
  
私のこのブログの個別記事を閲覧しようとしたら、そんな文句を上に置かれしまっている。
インタレストマッチ広告?てのだそうで、見ている私の情報として、そんな分野のデータも蓄積されているらしい。
私はそこまであからさまな肉体状況を開示している覚えはない。
とすると、単に私の年齢の男性なら、すべてこのコピーに反応するとのゲスのゲス(guess:かんぐり)なのか。
 
こういうのって、自分の人格をハナから無視され、ブログでどんな知性のきらめきを輝かそうと、一皮向けばタダのスケベなオッサンでしょ?と言われたようで、ハラがたつ。
要するに、私はここで年齢と性別しかない、十把一絡げの「物」として扱われ、私個人としての尊厳がハナから一笑に付されていると受け取るしかないのである。
 
客観的に見れば自分がタダのスケベなオッサンにしか過ぎないのは解ってらい。
けど、そんなこと 他人に言われたくない やい!
 
ウメダを歩いていて「そこのオトウさん!」と呼びかけられるのもハラがたつ。
私はオトウサンではない。ましてアンタの親では絶対ない!
 
では、「そこの社長さん!」と?
うるせー!私は社長と呼ばれて嬉しがる人ではないわい。
 
では、それでも「そこのコジキ!」と言われればやはりハラがたつのだが。
↑30年経た今でも、この屈辱感はやっぱり消えてない。
 
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暑いのでツーリングどころではない。
先週から出かける代わりに、過去のツーリング記事を自分のHPに移動させる作業に集中している。
 
ブログでは過去の記事の検索は容易ではないし、記事の順番も変更できず、閲覧がめんどくさい。
その上、不快な広告文までぶら下げられるのではもうブログを見切らないと。
「どのみち、カネも能力もないんだろ?広告くらいがまんせい!」か、ハラたつなぁ・・。
 
海外旅行の記事なら量があまりないのでさっさと移動させられるのだが、「バイク/野外徘徊」の記事はもう六年も書き溜めて、膨大な量になってしまっている。
 
実は「ストラスブール通信」等の旅行記事は手作業でHPに貼り付け編集した。
(あっと、「フライブルグ通信」は未完なのでまだ移行してません。ハイデガー関連をつけないと・・)
バイク関連は膨大で、イチイチやってられない。
 
そこでPerl言語の出番。
私はカタコトながらPerlや秀マク等のスクリプト言語でも自己表現できるのである。
といって、現役から退いてから時を経て完全に文法を忘れてしまっていた。
それに、一度書いたプログラムの視認性が悪いのがPerlの特徴でもある。
やたら簡単に書けるので、後で読み返すとワケわからんようになる。
 
それでも、ばかばかしいくらいに複雑なブログのHTMLソースをにらんでパターンを分析、何とか私の記事の正味だけを書き出し、HP用に整形するスクリプトを完成した。
しかし、一応完成し、いざ実際に変換しようとするとブログの書式自体がこの6年に変化してしまっていたりして、即修正が必要になる。
ある程度変換すれば、後は手で修正すればいいのだが、そこはソレ、元プログラマー的習性が邪魔をして、汎用の万能スクリプトを目指してしまう。
 
このスクリプトの開発に2週間。
実を言うと、地道に最初から手作業でHTMLの変換をしても多分二週間くらいしかかからないのだが。(^^;
でも、それは私には実につまらん人生だ。
 
そして、私は既にPerlの文法を思い出す作業に熱中してしまっていたのだ。
当初は正規表現を使用し単にHTMLの単純変換をさせたのだが、そのうち欲がでて、写真の大きさを判別し、配置を決定し、縦横比率を新しく計算しなおす、というような条件付分岐まで開発。
で、条件式にパターンマッチそのものを設定し、更に if 分岐をネストさせ・・・
つまりですね: 
 while ($a =~ m/<img src(.+?)width="(.+?)" height="(.+?)">/g){
 if ($2 > 620) { $b = int($3*620/$2);
     $c = $c.$`.'<img src'.$1.'width="620" height="'.$b.'">';
     $a = $';
    }
}
っと、こんなところでワケわからん言語を喋っても、あいかわらず意味不明なオッサンと言われるだけだが(^^;
 
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そこまでして自分の書いたものを残しておく必要はあるのか?
 
それは私の生き方の問題だ。
他人から見れば実に下らんものだろうが、自分の魂を削るようにして書いたことのない人に、書くことの意味を説けるとは思っていない。
 
16の時から私は常に文章を書いてきた。
そして書けなくなる時が死ぬときだ、と今も思っているのだ。
 
書くことで自分を支えてきたのだし、書くことが本当の自分の仕事だと常に同定してきた。
ただ文章のセンスや想像力が、つまりは才能がタダのおっさん並しかないので金にはならないだけで。
私が生涯を通じて得た正式税込み原稿料総額は金4000円也。
 
もし、本当に私が高名な作家だとしたら、誰がそんな失礼なことを言うだろうか?
作品が闇に消えれば、世界文化史的損失と人はいうだろう。
だれがその文章の価値を判断し、この世からの取捨選択するのか? 
 
高名であろうとなかろうと、しかし私も同様に書くことで生きてきたのだ。
これは誇張でも比喩でもない。
書くことで、この違和感だらけの世界と自分の距離を調整してきた。
 
他人から見ればしょうもない、ただの下らんオッサンでしかなかったが、かろうじて犯罪やテロにも走らず自殺することからも踏みとどまってこれたのだ。
書くということによって。
書くことが生きる支えになるという経験のない者にはこれが理解できるはずもない。
 
しかしこの文章自体が、なんとか自分をこの世界に収めようとしている調整作業である、ということはアンタにだってわかるだろう。
 
履き古したパンツは「物」としての私に属するもので、そんなものとっておく必要はない。
物理的に書いたもの、ノートや日記、記憶媒体というような道具は「物」にすぎない。
しかし、その上に記した文章は「事」としての私の形だ。
 
ノートや日記、記憶媒体に記されたものを単にパンツと同じ「物」としか思えない者には、「事」としての自分という意味さえわからないだろう。
その人間の学歴や金・地位・肩書きというような「物」しか見ていないのだから。
 
おっと、もうブログの記事のハナシではなくなってしまっている。
 
 
「男はビンビン」と同レベルの、人を単なる「物」としか思わない無礼なヤツは何処にでもいる。
 
「そんなモン、残しといてどうすんねん?」 だと?
 
うるせー! 
そんなこと少なくとも 他人に言われたくはない やい。
 


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