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[団塊の段階的生活]

There's More Than One Way To Do It

2012/8/29(水) 午後 2:14
   There's More Than One Way To Do It
  (やり方はひとつしかないということはない)
 
これは Perl言語の開発者 Larry Wallの当初からの謳い文句である。
真に有効なツールというものはいろなやり方を許容する柔軟性がある。
別にマニュアルどおり、定石どおりではなくとも、その使い手にあった発想や思考を独自の論理として組み込むことができるのだ。
この柔軟さが、時として後日の視認性を損なってしまったりするのだが。
 
私達の世界は、いろんな個人が多彩な自己を実現できるような柔軟な構造であったほうがいい。
しかし、現実はまったく正反対の規格化やマニュアル化が横行し、まったく画一化された思考しか許容できない剛い構造になっている人が増えてしまっているようだ。
 
そのたった一つしか思考法がない剛構造者は、世界がそれほど単純ではないという現実に直面すると、自分の思考以外の様式を必然的に「悪」と判断し、安定した世界を守るため「悪」を排除するという使命感に目覚め、聖戦につき進んでしまうのである。
適菜収のいう「絶対正義への陶酔」というメカニズムもそこに働く。
 
領土問題で盛り上がる中国や韓国のにわかナショナリスト達、大津いじめ事件でこの社会の不正に私的に鉄槌を下そうとする正義の実現者が陥っているのは「真実はひとつ」という硬直した思考に他ならない。
 
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私は画期的なピアノ奏法「ハンミュンデン・メソード」や万学の方法論「苦悶式」を開発しているのだが、人物を評価する簡明かつ完璧なクライテリア「HEMIQ式」も世に問うて既に久しい。
 
 Hemiq 式 標準型
一流の人物 ・・・ 一流の人
二流の人物 ・・・ 一流でない人
三流の人物 ・・・ 一流でない人なのに自分は一流だと思っている人
 
私の観察では残念ながら「一流の人物」は現在心当たりがない。
したがって私が知る全員が二流以下であるはずだ。
しかし、自分が一流だと自負していると見える人はうようよいる。
したがってそういう方はHEMIQ式では直ちに三流人物と裁定できてしまうのだ。
 
この HEMIQ式というシステムはかなりの柔軟性があり、いろいろ応用の利く万能のツールである。
 
 Hemiq式 活用 I
正しい人 ・・・ 正しい人
間違っている人 ・・・ 正しくない人、つまり間違っている人やわからない人
どうしょうもない人 ・・・ 間違っているか、わからんのに正しいと思っている人
 
 Hemiq式 活用 II
善い人 ・・・ 善良な人
悪い人 ・・・ 善くない人
救いのない人 ・・・ 悪い人なのに自分は善いと思っている人
 
ここまでくれば、親鸞サマが喝破した悪人生起説はこのHEMIQ 式の信仰へという局面への活用例であることは自明であろう。
 
HEMIQ式は人物評価のメソードなので、主観がはいらない事物の評価には本来適応できないのだが、骨子の三段論法を演繹し再び帰納させる入れ子構造にすることで論理ドグマを回避することができる。
 
絶対的真理 ・・・ 絶対に正しいこと
普通の真理 ・・・ 個人的真理や仮説、つまりローカルな(地域限定・季節限定)真理
迷妄 ・・・ ローカルなレベルなのに絶対的真理を標榜する真理。
 
現在、絶対的真理は確認されていない。1980年代にイギリスのホーキング博士が2001年には「大統一理論」が完成し、これが絶対的真理となると予言していたのだが、リーマンショックの影響で大幅に実現が遅延している。
従って、現在「真理」とされているものすべては絶対的真理ではなく、一部限定真理や仮説の類である。
にもかかわらず「絶対真理」を称するものがあれば、それは「迷妄」に他ならないのである。
 
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いじめた者、いじめを助長した周囲の者はもちろんこのHEMIQ式では 第二列の「悪い人」となる。
しかし、世の人びとはたいてい第二列なのだ。
正しい者なんて実際には既にどこにも居ないということは経験則として解っている。
われわれはたいてい、大して善くも正しくもない普通の人間である。
 
「いじめ」を絶対悪として糾弾し、いじめた者に制裁を加えようとする者は、自分が正に「いじめる者」であるという自覚がない。
HEMIQ式では「いじめた者」はまだ救える二流の人物であり、「いじめた者をいじめる者」はどうしょうもない救いのない第三流の人物と裁定する。
 
私はいじめられたことはもちろんある。
しかし、よく考えるといじめた経験もなくはない。
 
力の弱い弟に、よくプロレスごっこをしかけたこと。
親しみを込めた冗談のつもりで行った私の行動に対し「どこまでバカにすればいいんですか!」と返されたこと。
 
そんな昔のことだけでじゃない。
あまりにのろい前の車にいらいらし、思わず「煽る」ようにして接近してしまうこと。
プールで最初にワザと派手にバタフライを演じ、同じコースにいる先行者を撃退してやろうとすること。
このような日常での何らかの自己顕示欲は、受け取り手によっては立派な「いじめ」として認識されてもおかしくはない。
 
このように考えると、私も含め世の大多数はむしろHEMIQ式の第三列に属する「救い難い、どうしょうもないような人物」であるとするのが、あられなくもこの現実の世界というものであろう。
第三流人物だけで構成されている奇跡の現在。
 
直接行動に出ないまでも、「いじめ」事件に義憤を覚える人は、「自分はいじめる側の人間ではない」という暗黙の前提があるので、いじめを批判しその主張の正しさに陶酔できるのではないか?
「いじめは悪いことで、いじめは絶対無くさねばならない」という命題を絶対真理として単純に信奉できる方は、残念ながらHEMIQ式では第三列の人物と裁定しなければならない。
 
「いじめ」を自分の内にもある悪と認識し、自分の悪と正しく向き合うことがないので、自分の外側の悪徳がスローガンを唱えるだけで無くなると考えてしまう。
残念なことに、現在の世界はまだそこまでの完成度はない。
それどころか未だ「大統一理論」もみえてこない不完全な、失敗作であると思ったほうがよい。
こそこそと逃げていく神様に向かって「こら、責任くらいとってから死ね!」と一言いうことができるだけなのだ。
 
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しかし、どうしてこう自分に向かう批判力のない者が増えたのか?
規格化されマニュアル化された無個性なただの一個の物にすぎないのに、自分が標準で絶対で軌範で善で徳で全てであるという絶対的な自己中自尊自大の信念のあり方は?
 
多分これは消費社会の形成下のマスコミュニケーション、とくにテレビジョンの発達と深い関連がある気がする。
テレビは見ているものを王様にしたててしまう。
全世界の中心に自分がいて、自分がすべてを知っているような気にさせてしまう。
 
「テレビが言ってた」というのがウチのヨメあたりの絶対真理の根拠である。
「テレビの、どういう番組の、誰が、どういう文脈で言ってた」 ではなくて「テレビが言う」のである。
 
There's More Than One Way To Do It
たまには違うやり方をして、違う問題にぶつかると、自分がどれだけ知らないのかということが学べる。
勉強すればするほど自分のバカさが解ってくる。
 
つまり自分が完全なバカになるために勉強するのさ。
とソクラテスなら言うだろう。
私も、そのような「立派な二流人物」になることを自分の人生の究極的帰結とせねばならないとは思うのだが。
今日も寝転んでテレビを見る。



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