突然windows8化 伊藤あさぎ サク..
[団塊の段階的生活]

デジタルコンサートホール (伊藤あさぎ サクソフォンリサイタル 序)

2013/4/2(火) 午前 3:14
伊藤あさぎ サクソフォンリサイタル
(序奏)
パソコンを買い換えたら、ベルリンフィルのコンサートネット配信(Digital concert hall)の30日間無料クーポンがついていた。先週はソレに嵌ってしまって、なかなか下界に降りる気にならなかった。

N響の定演中継とは違い、ベルリンフィルの各演奏会のアカーカイブがインデックスから呼び出せる。それも演奏会単位だけではなく、演奏者や作曲者名からでも索引できるのだ。
私は高雅繊細な感受性がなくて、ずっとB級音楽グルメをやっている。
だからたとえばN響の定期会員一般よりはマイナーな作曲家の名に精通していると思うのだが、ベルリンフィルの演奏会の演目インデックスで引用されている170人の作曲者の三分の一は一度も曲を聞いたことのない人のものだ。
また、著名作曲家だとしても、たとえばショスタコービッチの交響曲第六番なんてのは今回初めて聞く機会を得た。
もともとこの作曲家は奇数番交響曲がシリアスで偶数番が軽めというベートーベンばりの交響曲連作法を意識的に踏襲していたのだが、第九番で大きく肩すかしを食らわせた茶めっ気もあった。
おかげで第九で打ち止めにはならず15番まで行って逝ったのだが。
 
で、第六。いいよねぇ。
大曲の第五と第七に挟まれ、シリアスなクラシック好みの日本では受けないかもしれないが、なあに、あと100年もすればショスタコービッチはこのような軽妙で、小気味いいオーケストラ曲の作家としてのみ演奏会のレパートリーに残っているのだろう。
N響でも最近の演奏会では私推薦のB級作品カゼッラの交響曲が取り上げられたりしているのだが、ベルリンフィルの演目の多彩さに遠く及ばない。
ナクソス盤で聞くしかなかったルトスワフスキーの作品なんて、ベルリンフィルでは毎シーズン取り上げられている超メジャーな作家である。
 
というわけでこの無料の楽園に飛び込んで先ずやることは、今まで聞いたことのない作家の作品を聞くことだ。
 
最初に遭遇したのがツィンマーマン(Bernd Alois Zimmermann, 1918年-1970年)。
ちゃきちゃきの20世紀の作家だが、同世代のブーレーズやルチアーノ・ベリオなんかと違って、生前はあまり評価されず、そのことを苦に自殺したらしい。
しかし今ではベルリンフィルの最近のシーズンでも5曲が取り上げられている。
ちなみにベリオは15回も取り上げられているのだが、多くは「現代音楽の夕べ」のような演奏会でソロ楽器で演奏された演目。
 
ツィンマーマンは先ず、オーケストラの小品が演奏されるのを聞いたが、オーケストラの楽器の不協和な分厚い音響が絶えず持続する世界観がいかにも混迷の20世紀の作家だと思わせた。
2009年の演奏会ではツィンマーマンの一時間を超える大曲がメインで構成されているコンサートがあったので心して視聴した。
 
2009年4月25日 ペーテル・エトヴェシュ指揮 ベルリンフィル他で、
ベルント・アロイス・ツィンマーマン「若い詩人へのレクイエム」1957年)。
ベルリンフィル他としたのはオーケストラとソリストの他3つの合唱団と声優2名に加えライブ・エレクトロニクスやロックバンドまで入った大がかりな構成だったのだ。

ここでライブ・エレクトロニクスなる「楽器」が登場するのだが、はっきりいってこれはミキサーに他ならない。
シンセサイザーのような電子楽器というわけではなく、「奏者」は実際に演奏することはなく、ステージ上の進行を睨みながらあらかじめ仕込んで加工した音を適切に再生する。
ツィンマーマンの大曲では、最初からこのエレクトロニクスが活躍しオーケストラの不安な持続音に重ねラジオの雑音や当時のドイツ語でのアナウンスが複雑にかぶさり独特な音響空間を作り出す。
時として一切の舞台上のパーフォーマンスが沈黙してしまい、スピーカーからの生の音響ソースだけがずっと連続するシーケンスもある。
こういうとき、デジタルコンサートホールの映像録画技術者は舞台上だけを映すわけにもいかず、いろいろと画面がさまようのだが、いろいろ意外なものが映っていて非常に面白かった。
指揮者の譜面台の上に取り付けられたデジタル時計、馬鹿でかい譜面上の図形と記号、客席の合唱団の指揮者が指揮しながら見ている足元のモニター画面、頭上の複雑に配線されたスピーカーを映している場面や、ただ天井だけを撮っているいる時間もあった。
当然ながらエレクトロニクス奏者のコンソールも見え、まったくミキサーそのものであると解る。
しかし、これはベルリンフィルのコンサートではなく、ベルリンフィルも一部参加しているイベントという方が実体に近い。
もちろん指揮者が全体のコントロールをしているのだが、中間部では静止したまままったく動かず再生される録音をただ聞いているだけである。
この中間部ではオーケストラやオルガンの音さえ録音されデフォルメされたものが流されていく。
ここで舞台上の英雄がメガフォンを取り上げ叫び、そこからまたオーケストラや合唱という生の音がかぶさっていくという劇的な効果もある。
 
しかし、これは通常のコンサートのイメージではもちろんなく、音楽というイメージに収束させるにもかなり外れてしまう。
ベルリンフィルハーモニカーというオーケストラの演奏会ではなく、ベルリンフィルハーモニーというホールで上演された音響イベントである。
 
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