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[団塊の段階的生活] | |
伊藤あさぎ サクソフォンリサイタル | |
2013/4/2(火) 午前 3:18 | |
(ロンドカプリチオーゾ)
ここで伊藤あさぎのリサイタルで使用されたエレクトロニクスのことに行くわけだ。 やれやれ・・。 単音楽器のサクソフォーンにピアノが共演するのは普通の光景で、まあギターでもハープでもいいのだが、とにかくコードを受け持てる楽器が補完することになる。
しかし、このエレクトロニクスは音楽の要素としての和音を受け持つわけではない。 ちゅうか、もう和音だのリズム・小節線とかが規定する音楽ではなくなっている。 「若い詩人へのレクイエム」のような大がかりな曲でのツィンマーマンの使用法はある意味では非常に明確で、歴史的現在(現実)の音響の再生だった。もちろん、中には架空のオーケストラの響きや、特にベートーベンの第九のコラージュも入るという一つの世界のトータルな音響の再現だった。
これに対し、坂田直樹(作曲)の用法は純然たる楽器、音源としてのエレクトロニクスだった。 ほとんどがシンセサイザーによる音源のサンプリングでかなりの変調を施した刺激的な音だ。 ピアノで施される和声の室内装飾的なまとまりよりもっと荒々しく生々しい現実の音響と、現実には聞きえないバーチャルな響きと。
ピアノにはない持続音や生の楽器では出ないハイレベルなリゾナンスが人声に近い音域のアルトサックスに絡んでいく対比の緊張感や、サックスの歯切れの良いタンキングがイミテートされ、機動戦士ガンダムの笑い(←よーわからんが^^;)のように空中に残っていく効果とか、それなりに面白い音響が楽しめた。 しかし、これをリサイタルでやるのはあんまりやないか?
もちろん、B級音楽愛好家の私はこの作家(と演奏者)の意図が理解できた上で言っているわけではない。 ただ、演奏者がスピーカーの音と絡むサマは舞台空間としてのプレゼンテーションが面白くないのだ。 これはいわばカラオケの図に他ならないではないか。
演奏終了後、エレクトロニクスのコントロールを行った有馬純寿が会場奥から現れ、カラオケではなく後方のコンソールで伊藤と共演していたのがわかるのだが、しかし、後方ではステージのプレゼンテーションに少しも関わってこない。
だから伊藤あさぎの意欲は買うのだが、リサイタルというパーフォーマンスの見栄えという点でちょいと私には不満が残ったわけだ。
第一部がソプラノサクソフォーンのステージ。
ソプラノサックスはフルートの音域プラス下側にもうひとつくらいのオクターブがあり、華やかで馥郁としたメロディを唄える楽器だった。 鋭いタンキングや息音を含め、表現力の幅もフルートをはるかに超える。 最初の「古典的」なラベルとサンサーンスの小品のアレンジは、このメロディ楽器としてバイオリンと互角に勝負できる表現力を十分見せつけた演奏だった。 ルルーの作は鋭角的な息音から切り込むコンテンポラリーな作だが、その割にはピアノがヴィロードのようなコードの響きを付け足したりして、音楽の古典的な美しさも否定していない。
しかし何だかサクソフォーンの演奏は易々と難易度の高い音型を完璧に吹きこなしてしまい、バイオリンのフレット音がかすかに乱れたりするような生々しいはらはらするような真剣勝負感(?)が希薄になってしまう気味がある。
ピアノの佐野隆也との最初の3個目の息が合わず少々ズレたのが唯一のアンサンブル上のドキドキ感だった(^^; なんちゅう聞き方じゃ。 第二部では本来のアルトサクソフォーンに持ち替え、現代の作ばかりの演奏になった。
この楽器はここ100年少しの歴史しかないので、古典やロマン派の曲がないのはしかたがない。
18世紀からこの楽器があったならモーツアルトなら喜んで協奏曲を複数作ったろうし、バッハも無伴奏ソロサクッスソナタを書いたに違いないのだが。
ソプラノと違いアルトは明らかに金管系のホルンの響きに近くなり、ふくよかな色気が音色にまといつく。
これがテナーになると汗が出るほどの濃密な色気になるのだが・・。
まあ、これが我々のテナーサックスに対する平均的イメージだろう。
誰のサックスのことだか、お分かりでしょうな(^^;
しかし、期待に反してそのような色気を現代の作家はあまり期待していないようだ。
それよりもサックスの持つダイナミックな音域と音量の変化、近代のメカニズムで成し遂げられた高度な演奏技術、というようなところが作家の興味の中心なようだ。 ちゅうか、私はにあまり色気が見えてこなかった。
どうも、サックスというとそういうちょっと怪しげでちらりとアブないものを期待するのが庶民の感覚というヤツだ。え?私だけ? ステージ衣装もスラックスになっちゃって、いかにもアスリートもしくは技術者様に、運動やメカニックな楽しみが主体になるような演出だった。
B級音楽鑑賞家の私には一部のルルー、2部のデュクリックの作くらいが音楽として面白く聞ける範囲で・・、 あっと、それも部分部分の音型やリズム感が楽しかっただけで、全体の世界観がどうの、という域ではございませんので。
なるほど、伊藤がパリで格闘し研鑽を積んできたのはこのようなエネルギッシュな音楽空間だったのだ。
その意味でフランスの作家ばかり(アンコールもドビッシー)で構成されたこのリサイタルがパリ生活の集大成であり、帰朝報告であるということはよく理解できた。 伊藤はこの意欲的なリサイタルで完璧な技術と演奏エネルギー、真摯な音楽への取り組み姿勢を示し、さっそうと演奏家としてのデビューを飾ったわけだ。 さて、今後はどのようなミュージシャンをめざし、どんなコンサートを聞かせてくれるのだろうか。
次回がもう帰朝報告ではあり得ないのは自明なことである。 リサイタル当日の聴衆ははっきりと2世代に分かれていた。
演奏技術と現代感覚を食い入るように聞いていた奏者と同世代の若い音楽徒達と、私やヨメのようなちょっと歳食った雑多な音感レベルの単なるその他大勢と。 この後者がしかし現代の圧倒的多数の音楽消費者というべきだろう。
たとえばヨメは舞台衣装のことばかり気にしていたりする。
吊り紐が首にからんでいる楽器にはどうもドレスは無理か?とか、
それに現代音楽とドレスはミスマッチか・・・それも面白いか?とか。 「舞台に華がある」というような表現は便利なのですぐ使ってしまうのだが、要するに主に視覚的プレゼンテーションもステージには欠かせない要素だということだ。
いや、そんなことよりやはり音楽。
20世紀以降の音楽ばかりでも私はいいんだが、もちっと、なんていうか色気のあるヤツの方がね。 アンコールは亜麻色の髪の清楚な乙女だったんだが、オジさんとしてはどうしても色気ムンムンの方がなぁ(^^;
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