ハハオヤ85歳の海 | 考えず、故に我あ.. |
[団塊の段階的生活] |
京都バッハゾリステン特別演奏会 ミサ曲ロ短調 |
2013/4/22(月) 午後 4:16 |
京都バッハゾリステン特別演奏会
バッハ ミサ曲ロ短調
2013.4.21(日) 14:00 京都コンサートホール
合唱:京都フィグラールコール
指揮:福永吉宏
(1)
スポーツクラブでボディコンバット45に出たら、いつも前で頑張っているマッチョマンが居ず、常にその後ろで控えていた私が押し出されて最前列ど真ん中になってしまった。
しゃーない、いつもより派手にやってやろうか、というあられもない見栄がまだある。
折あしく跳び蹴りが入っていて、ちょいと腰をイワしてしまったようだ。
で、そのまま次のSH’BAMに出て、腰をセクシーにくねらせるというバカなこともしてしまう(^^;
家に帰ると完全にぎっくり腰になっていて、以降一週間の完全室内生活。
かくして、ひょんなことで無料会員になっているベルリンフィルのデジタルコンサートホール漬け自閉天国で遊び呆けていたのである。
(2)
ベルリンフィルでは毎回日本にいてはあまり聞く機会のない20世紀産の曲がプログラムに載っていて、ここ30年分くらいの大オーケストラの音響への枯渇が癒される思いだった。
何と言っても20世紀前中期の後期ロマン派崩れ小節線あり無調ぎみの大オーケストラが本当に私が楽しく聞ける「クラシック音楽」である。
私が高校生の時初めて買ったレコードがアルバン・ベルグ「3つの小品」他だったが、その後日本の上演を見た記憶はない。当然これもベルリンフィルの視聴可演目に入っている。
ショスタコービッチの交響曲やスクリヤービン「法悦の詩」、メシアン「トウランガリラ」を締め切った室内で目いっぱい炸裂させる愉悦はB級音楽グルメの真骨頂だろう。
引用した作品は日本でも時々上演されるのだが、ベルリンフィルのプログラムに載る20世紀作家の大半は私には初聞で、メリーゴーランドのような楽しさ一杯。
「クラシック音楽」って実に刺激的で面白いのだ。
20世紀後半や現役作家の曲も多数聞くことができたが、この世代はどうも禁欲的な作風が多く、あまりに前衛的、あるいはあまりに芸術至上主義的であり、私のB級感性では音楽の楽しみに欠ける。
N響の定期も毎回録画しているのだが、演目は同じものの繰り返しで何十年も聞いちゃいられない。
室内楽やソロでは現代曲もまま演奏されるようだが、そんな実験的な音ではちょっとしんどい。Nicht diese Tone!
私は大オーケストラの迫力ある音響に酔い痴れたいのだ。
日本人作家では細川俊夫の「ホルン協奏曲」が演奏データベースに入っていて、これは21世紀の産である。もちろん興味深く聞かせていただいた。
繊細な神経が行き届いた新鮮な響きだったが、私よりもっとハイクラスな感受性を持った人向きだ。
他、チン・ウンスクという韓国の若手女性作家の作も聞いたが、作曲家・歌手が面白がっている割には楽しくはない。
21世紀産の音楽で文句なく楽しかったのはソフイア・グバイドゥーリナの「打楽器アンサンブルと管弦楽のための協奏曲」。あまり深い芸術性には切り込まず、音響やリズムの面白さを前面に出した21世紀のクラシック音楽エンタティンメントというべき作品だ。
そうか、どうも最近の作家は音楽のエンタティンメント性を敬遠しているようだな。
はっきりしたリズムと大音響、それにちょっとしたメロディラインの仄めかしとかの具象的要素か。
もちろんそういう感知しやすい形は、そのシカケ(ストーリー)が解ってしまうと2度目はもう飽きてしまう。
だから少し複雑なシカケを考案し、初回では全容がわからんようにし、複数回の視聴に耐えるようにするのがロングセラーのコツである。
まあ、プロ作曲家の感性は聴衆よりかなり鋭敏なはずだから、自分のギリギリのテクニックを盛り込むより、数レベル落とした通俗性を持たさないとビジネスにはならないのではないか。
全体はちょいと解らんくらいの抽象だが、よく見て見るとちゃんと具象の骨格が透けて見えてくる。そのあたりの兼ね合いの面白さ。
とか、まるで高校生時代に帰ったように新鮮な「クラシック」(実は近現代)音楽に浸かっている日々だと思っていただきたい。
(3)
だから、以前に手配してもらったロ短調ミサのチケットだったのだが、音楽を楽しみに行くという気は殆ど無かったような状態だった。
バッハの中でもトランペット・ティンパニー付の派手な曲だし、私に少年の時に聞いたアニュスディの地の底から湧き出てくるような前奏の不思議な力の印象もあり、バッハの中でも一番好きな曲だが。(カンタータ147と双璧か。)
しかし、現代の感性からすれば長すぎるのではないか。
高校生の私なら一種の克己的向学心や、ヨーロッパの古い芸術に対する盲目的憧れもあり全曲の演奏に集中することもできた。しかし、今ならバッハはあまりに禁欲的過ぎる。
本来的には教会でのバックグランドミュージックなので、真剣に音楽だけと対峙し、息をこらし1時間半を過ごすもんじゃなかろう。
アグニュスディにしても、現代の感覚なら歌に入る前の前奏が長すぎるじゃないか?
200年も前の音楽を未だにそのまま上演しているなんて、逆に言えば演奏者や聴衆は現代生活上の感覚からよほど遠い世界の人たちなのか?
15分に一回コマーシャルが入るのが今の生活時間感覚だ。
それに、自宅で寝ころびながら自分の好きな音楽がいつでもふんだんに聞ける時代に、本当に音楽だけが聞きたくてコンサートに行く人がいるんだろうか?
それとも、私のスポーツクラブ行きのように、自分ではとても散漫になって耐えられないが、誰かと一緒、あるいは強制されるのなら一時間は頑張れるから?(^^;
まあ、音楽のような分野でいくら頑張っても何の訓練にもなりませんぜ。
と、不遜な思いで聴衆を観察していると案の定というか(^^;平均年齢は私同様のようだ。
それも、どうやら合唱団関係方面からのチケットで来られている方が大半。
合唱団関係ではなく、純粋にロ短調ミサが聞きたくてチケットを買って来ている人は一体何人いらっしゃるんだろうか、とか思う。
かくいう私もどちらかというと合唱団関係方面からのチケット入場者(^^;
若い世代がとんといませんねぇ。
クラシック音楽の演奏会、本当に我々の世代が居なくなっても大丈夫かい?
せめてベルリンフィル演奏会並の刺激的な企画をやってれば、確実に若い世代の客筋も開拓できるのに。
最近も現代の仏教が何百年も同じ経文を繰り返すだけでアップデートする意志も感じられないような状態を目の当たりにし、個人的に憤懣を抱いていたところだが、これは全く別の話。
・・・とか、勝手なことを言いつつ京都コンサートホール内で開場を待ってたわけだ。
もうバッハに入り込めるような、いわば熱い思いはなかったのだが、それでもロ短調ミサは隅々まで知っている音楽で、懐かしい感覚はある。
カール・リヒターとミッシェル・コルボーという二つのバージョンの録音も私のデジタル化したコレクションにある。
だから、道をたどるのは私にはそう難しくはないのだが、たとえば隣のヨメにしてみれば、まったく取り付く島もない、エンターティンメント性のかけらもない音楽である。
即就寝する以外にはないようだった。
(4)
控えめで少しくすんだようなオーケストラの音色、特にホルンのソロは名人芸だったがこの音色も少しくすんでいる感じがした。
派手ではない。現代風の解釈ではなく、古楽的響き。
合唱も声が出来ていず、どこか音色の粗さを感じたのだが稚拙ということではない。
5人のソリスト(バスはダブルキャスト)は合唱団の列で合唱パートも歌い、ステージ前面に出てソロを唄うのだが、曲の後奏で移動し音楽の流れを止めない演出だった。
前半で合唱団の声が「出来ていない」と思ったのだが、休憩後どうやらステージ全体が熱を帯びてきた印象があり、改めて注意を集中して聞いてみると「出来ていない」のではなかった。
合唱団の技術は完璧で発声が拙いわけがない。
ノンビブラートでバロック時代の唱法を再現していたのだった。
そう見極めて改めて全体の響きを確認すると、見事に調和のとれた古楽の響きが再現されていた。
特に合唱のハーモニーの快さはアマチュアとは思えない。
というよりもそれがバッハが聞いていた合唱であり、カール・リヒターがミュンヘンバッハ合唱団で意図した唱法なのである。
合唱(コロス)は民衆の生の声であり、プロの歌手の声ではない。
ところが現代のアマチュア合唱団の発声は悪しき自分勝手なビブラートが横行し、実に聞くに耐えない不純なものに成り果てていたのだ。
この合唱団のピュアなハーモニーを聞くと、合唱祭等で出くわす自己満足ビブラートのおぞましさに今更ながら嫌悪の念を抱いてしまう。
いや、私こそがそのおぞましい自己満足合唱団員に他ならないのだ。
「アマチュア合唱団なんだから細かいこと言わず楽しく歌わせてくれ」と、私はいつも言うのだった。
自分で歌うのと、他人の合唱を聞くのとではこのようにクライテリアがまったく違う。
これは断じて偽善的ダブルスタンダードではない。
まったくの商業理論上の問題である。
自分でお金をだすのなら自分の好きなように歌いたいし、お金を払って聞くのなら自己流の気味悪い唱法は聞きたくない。
大半のアマチュア合唱団は有料の演奏会が開催できるレベルではない。
私は素人芸には絶対にお金を出しませんからね。
バッハの音楽とは少し別の次元の話になったが、そのようなワケもあり、私の耳に非常に快く音楽が響いてきた。
ノンビブラートのコロスがいかに快いものか。
指揮の福永吉宏はアマチュア合唱団に対しても厳密な歌唱法を徹底していたのだった。
ノンビブラートの長声がこころもちフラットに聞こえるのは事実だが、ハーモニーの純粋さを損なってはいない。
加えて言えば、細かい16分音符のパッセージはパートに入っているソロ歌手が主に担当し、技術的に不完全部分を徹底的に排除していたようにも見えた。
そのようにして初めてバッハの意図した音響の世界が再現される。
いわばアマチュアの声を再現するためのプロ並みの抑制。
片や、プロと同じようなビブラートをつけたがるアマチュア。
私はこの合唱のピュアな響きに感銘を受けた。
しかし、私自身は団員募集中のこの合唱団に参加する気ならないのは言うまでもない(^^;
バッハ以外の部分で妙に感心してしまったのだが、ロ単調ミサの音楽的な面白さは十分思い出すことができた。
終局の、抑制のきいた盛り上がりに至るころには感動の域まで行きかけた。
あぶない、あぶない(^^;
当初、思っていたほど古くて退屈で長ったらしいだけの音楽ではない。
しかし、それは十分若い感受性をもっていた時、少しでもバッハの熱を感知した学習回路が備わっている人だけの印象だろう。
まったく、そのようなバッハ体験がないヨメのような世代にとっては、どんなに感動的な演奏であったにしても、まったく何を捕えていいのかわからん音楽に留まるのではないか。
それはそれで、私にはもうどうでもいいことだ。
合唱団の唱法という別件の新鮮な発見もあり、そしてかなり高水準な演奏だったのだが、自室でベルリンフィルの無料の演奏会以上の楽しみではあり得ない。
ただ、ここ50年来気恥ずかしくて上ったことのなかった京都タワーに登り、展望ラウンジ「空」でコーヒーを飲み歓談するというような余得も含めると、そういうイベント全体が演奏会に行くということになるんだろう。
ちなみに、京都タワー展望台搭乗料金は¥700。
ところが2階下の展望ラウンジでコーヒーを飲むだけなら、今ならたった500円。
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