京都バッハゾリス | 世界のエトス(J... |
[団塊の段階的生活] |
考えず、故に我あり。 |
2013/4/30(火) 午後 8:44 |
4・28(日)
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工事中だった大阪駅北側エリアの商業施設(OSAKA GRAND FRONT)がオープン、さっそくハハオヤのメンテナンスを兼ねて見学に行く。
ゴールデンウィーク中で、エライ人出ということだったが、敷地が広々としていたこともあって案外混雑していなかった。
向こう側が大阪駅。
大阪駅前阪神御堂筋からエリア巡行バスに乗ってぐるりと回ってきたのだが、バスに乗るほどの距離でもない。
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料金100円はムダ。
梅田エリアでは珍しいくらいのゆったりとしたスペース感があり、カフェの路上テラスもなかなかサマになっている。
なかなかいい天気、いい気候だったので、野外カフェはきもちよさげ。
ただし、帰りに通りがかったら春の一日の寒暖の差は激しく、かなり肌寒くなっていてお客は必死の形相でコーヒーをにらんでいた。 |
OSAKA GRAND FRONT北館内部。
広大な吹き抜けのエントランス空間を持っていてウメダの商業施設とは思えない開放感がある。
大阪駅北側の旧梅田貨物駅地帯、よほど地代が安かったんでしょう。
あたらしい施設らしい近代的清潔感。
ただし、エレベーターは現在の筐体位置表示がなく、待っていてもいつ来るのかわからんことになっている。
あきらかな設計ミス。
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屋上には広大な空間を生かし芝生の散策路があり、陸稲が植えられ秋にはトラクターで刈り入れをする予定。
か、どうか知らないが、そのような説明で、ハハオヤには快く納得していただいた。
屋上からは向かい側の「空中庭園」が邪魔なだけで、大阪駅裏側の低層住宅工場低級商業地区の殺風景がたっぷり楽しめる。
昔、あの「空中庭園」に海外観光団を案内したら「どこに庭園がある?」と尋ねられ、往生した。完全名前倒れ。
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梅田ではあるが、散歩老人を配してもそう違和感はない。
ただの商業施設ではなく、
各企業のショールームや大学研究機関の広報イベントブースもあり、ハハオヤ一日
メンテナンスコースに後何回かは使えそうだ。
北館には島村楽器のショールームがあって、グランドピアノ数台をはじめ、かなり広めの店舗展開をしていた。
C3の中古160万。
40代でクラビノーバ、50代でアップライト、そして次はC3の予定である。 |
はやく導入しないと私の残り時間がなくなるのだが、いかんせん場所がない。
ハハオヤの住むヨメの実家も、付属の長屋も、私の居宅の和室も全部ヨメのガラクタで占拠されてしまっている。
仕方ない、ローランドのグランド型電子ピアノ(79万)で、とか思いながら売り子サンと会話。
このお嬢さんはピアノ科出身風でなかなかノリがよく、二人でラフマニノフの「鐘」の口ピアノを上演したりした。
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7階「近大マグロ」横のSTANDARD BARでピザ休憩。
近大マグロでもいいんだが、ヨメがどうしても「近大」だけはイヤだという。
なにか遺恨があるようだが、ま、詳しくは知りたくもなし。
カウンターもある純BAR風だが、店の仕切りがなく外部とそのまま続いているので開放的で入りやすい。
で、ビルの中の店だというのに午前4時まで営業しているんだそうだ。
へえ。
ウメダは若者の街というイメージだが、オジンオバンでもこの施設ならゆっくりできそうだ。
この後、例によって伊勢丹・大丸・阪神のデパチカ回り。
北エリアから最寄りの阪神ウメダ駅まで、雨の日でも傘なしでうろうろできてしまう。
私はミナミの人間だったので、ウメダはあまり好きではないのだが、北エリアなら時々ナンパしに来てやってもいいか。
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ハハオヤは昨夜、若者集団に抗戦し繁華街のゲーセンで華麗なワザを披露し意気をあげた。
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なにかイオンモールのキッズランドのモグラたたきにみえるが。
なかなか好成績を収め、この分ではソチを目指せそうな勢いだった。
で、鬼の自宅トレーニング用に鉄下駄や筋力増強鉄アレイを探したが、イオンモールにはなく、次善の策として東大入試問題集を探したが、それも在庫なし。
しかたがないので、「どうぶつしょうぎ」幻冬社エデュケーション¥1429円を導入することにした。
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これは全く簡略化した将棋で、わずか手札4駒で勝負するのだが、一応成ったり貼ったりというテクニックも使えるようになっている。
各駒にはちゃんと動ける場所が示されていて、暗記することは何もない。
ババヌキにはすぐ習熟でき、モグラたたきでつちかった反射神経もあるので、この簡略将棋くらいなら私とすぐ勝負できるだろうと踏んだ。
ところが、意外なことにハハオヤには全くルールが理解できないということが解った。
軽い認知症があるとはいえ、金勘定は得意だし、近親の冠婚葬祭の日時の記憶は確かである。
この駒上に表示された移動指示くらいは簡単に理解できるだろうと予想したんだが。
説明すれば納得する風である。
キリン(飛車)はタテヨコで、ゾウ(角)は? ナナメやろ?
ところが、自分の駒がキリンなのに、相手のゾウを見、「ゾウはナナメ」と言って自分のキリンでナナメ上のゾウを捕まえる始末。
また、将棋の基本である相手の次の手を読むということもまったく理解の範疇外ということが判明した。
つまりババヌキの進行法(同じ札なら捨てる)やモグラタタキのような単純な判断・反応は可能だが、新しいルールを理解し、次を予測するという能力が全くないのだった。
つまり、「考えること」がもうできていない。
我々が当然と思っていても、人の能力にはかなりの差異がある。
同じ世界に暮していて日常的に会話しながら意志を伝達できているが、ハハオヤの世界からは私に見えている単純な論理の糸は見えていない。
しかし、ハハオヤには自分に見えている世界がこの世のすべてであり、その中に自分は疑いもなく確固として存在しているのだ。
しかも、ハハオヤの世界の中では全て知覚できる他者も同様の構造を持っていて、ハハオヤに知覚されている私もハハオヤと全く同様の存在様式を持った人間であるはずだ。
ウメダの人ごみで、ハハオヤは財布をさぐり札2枚をとりだし、あっけらかんと私に「これで買おて・・」と札を振って渡そうとする。
デパチカで使用するのはクレジットカードで、ハハオヤの現金をあてにすることはない。
支払いたければ後で清算してくれればいいのだが、ハハオヤにとって現金を渡すということだけが自分の意思や感謝の唯一の表現で、人ごみであろうがどんな価格であろうが状況によって変わることはない。
私から見ればかなり単純化された世界に生きていると思えるのだが、自分の存在に対する疑いはないはずだ。
目が見えにくいだの、歩くのがしんどいだの、個別の能力の減退の意識はあるんだろうが、自分の意思や判断に関する疑念は一切持っていないない。
私の側がどんなに生活様式が違うのか、一切の差異を理解することなく、自分の良かれと思うことを私に行使しようとし、その意思が善意である限り必ず理解されるはずという盲目的確信がある。
これはかなり奇妙なことだ。
次にフッサールの現象学の超読解本(^^;の読書控を書く予定だが、古来から哲学者が自分の認識力を疑い、自分の存在根拠を疑い、血を吐くようにして必死にこの世界が確かなものである、と言える根拠を探し求め、未だに何らの満足できる回答も得ていないのだ。
デカルトはこの世界が不確定なものだとしても、「考えている、その考えている主体である私だけは存在していると言えるのではないか?」と苦しい自己肯定を強弁した。
私もこのところ自分の存在の不安を直視せざるを得ない精神を飼ってしまっている。
私からすればハハオヤのいる世界は何の客観的根拠も主張できない、まったく主観的恣意的なミクロコスモスで、普遍も世界の認知も存在論も倫理も論理も何らの確たる存在証明も見つからないハズなんだが。
そろそろ成年後見人の適用を考えるこちらを後目に、ハハオヤには自分の財布を他人に渡し、管理を委託しようという気はさらさらない。 振り込め詐欺のみなさん、ここにもいいカモがおりまっせ。
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じゃが、Ich bin D A ! わしはわしじゃ、ほれ現に存在しとるやろ!
という強烈な自己肯定力がハハオヤには備わっているように見える。
これはもしかして?
自分の存在を確認しようとして、肉体の構成因子を特定し、原子組成を解明し、素粒子に分解し、結局自分自身は何か波のような現象にすぎんのだ、と思い込んでしまう、このどうしょうもない論理的潔癖性がいかんのだ!
「考える」ということ自体が存在を危うくしているのだ。
たとえば自然科学は客観的・普遍的存在者を疑うことはない。
観察されるものは存在するのだという前提が懐疑されることはない。
観察することによって存在自体が影響を受けるとして、不確定になるとしても依然として存在は存在たり得る。
これはつまり、このようなものを説明しようとして理論を組み立て、理論を組み立てることによって実際の外部世界が、つまりは実在が、理論通りに展開し実在していっているのである。
そのようなものとして存在は見える。
世界はア・プリオリに存在するのではなく、各自の思考で逆算されてはじめてそのように存在しはじめる。
そのような恣意的な世界こそが我々の宇宙の本質である。
だからデカルト先生には申し訳ないのだが、存在を懐疑することは論理的自己矛盾である。
考える、夢の中でこれは夢かと考える。すると深い懐疑のみが世界を構成してしまう。
考えず、故に我あり、 とハハオヤは諭しているのだ。
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