考えず、故に我あ 世界のエトス(J...
[団塊の段階的生活]

世界のエトス(J.ハーヴェィ)の重層構造 (1)

2013/5/2(木) 午前 1:07
(1)
ひょんなことでベルリン・フィルのデジタルコンサートホールの視聴を始めた。
このストリーミングサービスは以前から知っていて、無料のハイライト映像は幾度となく眺めていた。
しかしウチはお金持ちだけど、私は生まれついの貧乏性、つまりケチである。
N響定期がBSで見られるのに、ベルリンフィルの放映にお金を出す気にはならなかった。
 
ところが、最近30日間無料キャンペーンに乗せられてベルリン・フィルの定期のアーカイブをじっくり見せていただいた。
こうあからさまに言っちゃいかんのだろうが、N響がまったくばかばかしい学校の学芸会のように思えてしまった。
よくもまあ、あんな退屈な演奏会を毎回やっているもんだ。
もちろん、これは私がB級音楽フアンだからで、N響の定期会員を誹謗する意図はまったくございませんので。
 
もちろん、少年期の私はN響定期の放映をくいいるように見入り、新鮮な音楽が引き起こす未知の世界に陶然となっていた。
しかし、いつしかN響定期の放送を楽しみにすることがなくなっていった。
クラシック音楽に熱中し数年ほど経つと、殆どすべての定期プログラムの演目がおなじみになってしまう。
相も変わらぬ「標準的名曲」だけで構成されたプログラムを何十年もただ繰り返しているのだ。
一度読んだ物語や一度見た映画をそう何度も繰り返して鑑賞しますかね?
 
もちろん音楽には演奏という要素があり、それは毎回違うだろ。
しかし、そんな微細なニュアンスや解釈の違い楽しむような批評家的感覚は私にはない。
いやしくもプロであれば「標準的名曲」の解釈なんて似たようなもんだ。
 
2000年あたりから、シンフォニーホールの千円席チケットがなくなるまでの5年くらいはヨメに誘われてよくコンサートに行き、せっせと演奏会評を私のHPに書いていた。
しかし演奏解釈に踏み込んだ批評になったことはなく、単なる曲目紹介や個人的連想を書き連ねたに過ぎない。ま、別に批評家をやってるわけではないので、それでいいのだが(笑)。
最近の「伊藤あさぎリサイタル」や「京都バッハゾリステン」の評を見てくれましたかね?
(↑誰も読んでないのは承知だけどね。)
 
しかし、ベルリン・フィルの定期演奏会のアーカイブに入り込んで、まるで高校生に返ったように興奮した。
聞いた事もない作家や曲がごろごろ。
で、そいつらを聞きまくっていると、これがまたとてつもなく面白いやつばかりなのだ。
 
ちなみに、最新の4月20日のプログラムはラトルの指揮で:
 ルトスワフスキ: オーボエ、ハープ、弦楽合奏のための二重協奏曲
 デュディユー: バイオリンと管弦楽のための協奏曲
 ベートーベン: 交響曲No.6「田園」
 
ルトスワフスキのその曲は初めてだし、デュディユーなんて作家まったく知らなかったのだ。
たまには「田園」聞いてやってもいいのだが、そんなの聞いて時間を無駄にしている場合ではない。
とにかく、まだ聞いていない面白そうな曲がごろごろと転がっているんだから。
それに、どうしてもベートーベンさんよりルトスワフスキの方が私の時代の感性に近いのは当然だろ。
 
私も「第九」は三回ばかり歌ったことがあるが、もう十分だ。
しかし、もう何十年も歌っているという人も多い。
私とはレベルの違う高度な感性があり、同じ曲でも倦むことがない方なんだろう、と思うのだが。
しかし、本当はなんと禁欲的で、偽善的な人なんだろうと、悪いけど(笑)思ってしまうのだ。
 
いや、偽善は失礼なんだが、少なくとも私がN響の定期会員になることがあれば、これは立派な偽善だね。
クソ面白くもないプログラムだが、少なくともタイガースの内野シーズン席を買う人よりは高級そうに見えるんではないか?なんて。
シンフォニーホールに通っていた時にもイヤになるほど観察できてしてしまったのだが、かなりの聴衆が音楽を楽しんではいないことが見え見えで痛々しく邪魔だった。
挙句の果てにコンサートに行こうという私自身の意欲がそがれてしまった。
 
今、N響の定期の演目をあげつらい、それは偽善だろ?と憎々しくもしゃあしゃあと言ってのけられるのは、ベルリン・フィルのプログラムなら本当に面白いからだ。
 
実際は音楽など聞いてはいず、演奏中は手持無沙汰にプログラムを精読し、がさがさと落ち着きがないのに、演奏が終了すれば万雷の拍手を惜しまない、というような偽善的な人がそこら中にわんさかいた。
で、N響の演目は教科書的「標準名曲」を並べそんな偽善的聴衆の好みに迎合しているだけだ(と見える)。
 
で、その結果本当に面白い音楽が聞きたい私のようなB級音楽グルメと、若い世代の大半の感性を演奏会から締め出してしまうことになってしまった。
日本のクラシック音楽業界がこれからどうなろうと私の知ったことではないが、私にしてみればここ20年くらい新鮮な音楽の楽しみを奪われてしまっていたのだ。
この悪しきクラシック音楽教養主義、あるいは実体もない公共放送という理念の偽善性。
迷惑この上ないこの現代日本の偽善的構造。
今私は怒っている。
 
かなり大げさかも知れないが、そのようにきっぱりと言うだけの根拠がここにある。
ベルリン・フィルの演奏会では本当に会場の聴衆と一緒に音楽を楽しんでいる実感があるのだ。
オーケストラの演奏会はやはり楽しく面白いものだったんだ。
決して私の感受性がすっかり衰えてしまったからではなかったのだ。
そのように、偽悪的に自分を解釈しなければならなかったのは、きみらのまき散らす偽善のおかげだ。
 
で、なぜかこの怒りの矛先は次に合唱団とお寺に向かっていく。
 
考えず、故に我あ 世界のエトス(J...