怒りと涙のオット 怒りと涙のオット..
[団塊の段階的生活]

怒りと涙のオットケーキ(2)

2014/1/7(火) 午後 5:18
(2)バルトロメオ
これは非有名人。今たまたま開いていたページにあった人名。
「怒りと涙のオットケーキ」シリーズの例証として引用する。
 
塩野七海「十字軍物語」(1)に登場する第一次(諸侯たちの)十字軍トゥルーズ伯サン・ジルの軍にいた従者で、行軍中のアンティオキアで神がかり的にキリストを刺した「聖なる槍」が埋まっていると予言、予言の場所に実際に穂先が見つかり、サン・ジルの信頼を得る。しかし、伯の信頼を得たことで増長するこの男の狂信ぶりに迷惑していた周囲の不満が高まり、「聖なる槍」の信謬性を疑う声が募っていく。
そこでこの男は「火の審判」で決着をつけるよう願い出る。
「火の審判」は燃え盛る火の中に入っても死ななければ神の加護がある(=真実である)証拠とするものだ。
ヨーロッパでは近世まで魔女裁判の決着のつけ方として「水の審判」が行われていた。手足を縛って水中に放り込んでも生きていれば魔女に違いないと評決するヤツだ。
魔女でなければそのまま水死、魔女だと後で火刑死というワケで妙に合理的なシステムである。
 
バルトロメオは火の中に入り、そして火傷を負い結局数日後死んでしまう。
 
ここで明らかなのは本人自身が神に告げられたということを毛頭疑っていないということ。
もう一つ、現在の我々はこのような物騒な神がかり的裁きはとうてい受付られないハズだが、中世は、あるいは近世でも、人々が見る真実とはこのようなものであったということだ。
 
で?現在ではどのように真実が吟味されているのだろうか?
まあ、中世と本質的には何も変わっていないのだ、という以外にない。
 
もちろん宗教的教条主義者の話ではない。
そのような明示的な指標を持つものに対し、あまりに主観的であるとして、客観的真実、あるいは科学的客観主義の名を好む近代の病的傾向が批判するのはいとも簡単な話だ。
むしろ科学的客観が真実と信じて疑わない中世的ドグマが「グローバルに」蔓延してしまっていることが、*異教の存在を知っていた中世よりもっと恐ろしい事態であると認識すべきなのだ。
 
上の書き方には既に論理相対主義からの揶揄があるのはもちろんだ。
まあ、そういうのも含めて現代でも「真実」というのは各個人の数だけあるのだ、と一応言うしかない。
そういうのを私は論理的相対主義の罠と呼んでいる。
自己に対しても客観的に、つまり真に公正であろうとする良心だけが陥る絶対に逃れられない無間地獄のことだ。
 
だから私は何が真実か?なんて議論しようという意図は毛頭ない。
ただ、私は「あなたの真実」は私のとは違っているので、私に無理に、多くの場合善意と言う形にして、押し付けないでください、とお願しているだけで。
 
 
*異教(徒)
この後、同書でエルサレムに到達した第一次十字軍の感動と殺戮が語られていた。
 
純粋な宗教的感動に昂揚し、十字軍はエルサレムの異教徒を全員殺戮していく。
イスラムはおろか、ユダヤ教、ギリシャ正教徒まで単に「異教徒」であるというだけで、聖地エルサレムから完全に抹殺する。
そして多大な困難を乗り越え、神への感謝の念で全員が純粋にひとつになり感動する。
 
この圧倒的な善意と究極の悪との共存が人間の中で矛盾することはない。
矛盾を感じるとすれば、それはあなたが近代の病に冒されているからでしょう。
「真実はただひとつ」という算数だけで作られた世界観。
または小学生なみの正義感。

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