怒りと涙のオット 怒りと涙のオット..
[団塊の段階的生活]

怒りと涙のオットケーキ(4)

2014/1/8(水) 午前 1:13
(4)善悪の彼岸にて
私が今でも半分はイヤイヤ生きているということがいい加減わかったかい?
別に死にたいワケじゃないのだが、ルンルンして生きているワケでもない。
 
しかし、事あるごとにハハオヤ・ヨメ連合軍は「アレがカラダにいい、コレはヤメなカラダに悪い」と追い立てにくる。
そんなこと、どうでもいいでしょうがぁ!とアタマに来て反ゲキすると、「じゃぁ、勝手に死んだら?」とミもフタもなく逆ギレされてしまう始末。
 
「死ぬまで生きなきゃいかんなんてあんまりや。せめて生きているうちに死にたいよ。」くらいでオチにする。
 
反論を許さない善意が世界に満ち溢れ、私は毎日窒息させられている。
 
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あまり関係なさそうだが、先ほどもHNKで「花が咲く」をまだ放映していた。
音楽自体はニュートラルでそんなに深くもなく、丁度いい具合だと思うが、分厚く上塗りされた、なんていうかConotation、付加された含意・というかなんというか。
・・・ええい!「込められた善意のこれでもか、これでもかの暑苦しさ」がどうしょうもなく私にはつらく、聞くに耐えない。
厚化粧して媚びに媚びたど演歌の卑猥さの方がよほど可愛い。
一体毎日あんな暑苦しく塗りたくった意味を突きつけられてみなさん平気なんでしょうか?
 
意味で満ち溢れた日本は異常にうるさい。
 
そこには個人のちっぽけな感覚なんて全く存在でき得ない、圧倒的な世間の暴力がある。
 
善意とは暴力に他ならない。 としか見えず。
 
とはいえ、これも私の側の世間適応障害故で、私自身は決して世間様のご迷惑にならず、ひっそりと棲息していく所存に間違いございません。
 
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そのような本心を見せてしまうとまた叱られるので、悪いとは思うが向こうからは反論しようもない身内のハハオヤを標的にさせていただく。
 
この方が実は日本の諸悪の元凶なのである。
 
老人保険医療費をじゃんじゃん使わせ、年金が今年から減ったと言って文句を言いつつ、際限もなくスーパーで安物を買い続け。
冷蔵庫の上にラップシートの箱の山があるのに、安かったから、と言ってまたラップシート4本組みを買い積み上げ。
「ためしてガッテン」で発酵食品が体にいいと聞けば、酒粕を山のように買占め。
もちろん、環境政策も老人医療も赤字年金資金もそんなことには一切頓着せず。
貰えるだけ貰らわな損とばかり。
 
差別用語をいかにもこすからしい表情で発音し。
身体障碍者を見かけると、アレアレ・・と指さし。
あそこは京大出ていると、知ってるだけで自分の格が上がるというのか得意げに。
日頃はチチオヤの家とはもう一切関係ないといいつつ、他人にはチチオヤは士族の出や、と吹聴し。
「あんた、どこに勤めてるんや?」と初対面の私に先ず問い。
何もかも曖昧なままだが、お金(と日付)だけはクリアな計算ができ利に敏い。
ナニも出さんと、アレもワタシが払ろた・・・とよく喋るのだが、たった一言のユーモアも冗談も、感動も、信仰も、夢も、憧れも、おそらく涙すら。
ステンレス・スチールを「ステン」と言い。
「新幹線」は「シンカン」
「スタッフ」は「スタフ」
あ、それはあまり関係ないが・・
 
コトバを厳密に定義して使おういうような感受性は一切なく。
教育するということも考えず、ご自分が放任して育た娘を口汚くののしり。
それは戦略的メンテナンスで今では幸い収束したのだが。
 
まあ、いいや。
とにかく、いわゆる無知蒙昧としか言いようもないただの強欲オバンである。
しかしこのようなただのオバハンが日本の人口のかなりの部分を占めているのだろう。
夢や憧れだけではなく、社会正義や倫理、政治理念も本も教養も音楽も一切無縁なただのオバン。
そして「(労働に)忙しく、そんなモン一切関係ない」と、あまつさえ自慢しさえする。
 
私個人としては、このハハオヤが自分で作り上げてきた圧倒的に堅固な「世間」が、又はどう和解しようもない巨大な害悪が、又は理解を超えた異貌の神が、又は私の周囲を埋め尽くす不条理の壁が長らく私を迫害し、訴追し、オマエは死ねと現在まで糾弾し続けてきた敵に他ならない、と認識する他はないのだが。
 
しかし、だれが社会正義感・倫理感の欠如とか、情感の不毛というような理由でこの85歳を批判しようというのか。
批判したところで訂正し、矯正し、理解し、和解できる可能性が100パーセントない者を。
 
そして、今は私も敵はハハオヤ個人ではないのを知っている。
ただハハオヤの世間では私は人として存在するハズもない者であっただけで。
私はハハオヤ個人を以上のような罪状で糾弾するつもりは毛頭ない。
ただ、不幸にして私と世間の片隅で暴力的に繋がってしまっただけで。
 
一体、善意や正義、倫理や真理、または夢や憧れ、愛や絆、そのような指標に個人的な思い入れ以外の普遍性があるのだろうか?
それは同じ世間内にだけ通用するローカル・マネーに過ぎないのは自明だろう。
人の思考・感覚・行動様式に序列をつけるのは同じ世間という共通通貨の通用範囲内でのことだ。
 
ただ人はそれぞれ違っている、と独りつぶやくのみ。
 
「世間」だけがあって個人が成立できない日本に独特な言語が成立する。
主語を明示する必要がない言語。
  
「ためしてガッテン」を見たものが、ただちに自分へのメッセージと短絡して受け取ってしまうような、個人差が一切考慮されることのない均一な世間で充満している日本。
 
「仕事で忙しかったので、その他のことを考えたことがない」という弁明は、自分は個人ではなく「世間そのものである」という内的確信に支えられている。
それが普通で、標準で、どこでもやっていて、普遍で、ただ一つの真実なのだ。
 
ハハオヤは自分専用に作り上げた世間の中で生きている。
 
何のことはない、今年は初めから「世間」と格闘しながらオットケーキを焼いている。

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