怒りと涙のオット 怒りと涙のオット..
[団塊の段階的生活]

怒りと涙のオットケーキ(5)

2014/1/10(金) 午前 2:28
(5)認識の地平線(1)
 
正月は暴力的に繋がってしまった世間との軋轢が高じる時期である。
姻戚からのいわくありげの年賀状とか。(^^;
重なり合った世間のヘゲモニー争奪の血みどろな仁義なき闘いとか。(^^;
私の周囲の物がブラックホールに吸い込まれていく大洪水とか。(^^;
 
で、今年は「怒りと涙のオットケーキ」だったわけだが。(^^;
 
それにしては結構和やかな正月写真じゃないかと思いません?
 
いくら「怒りと涙」で製作されたとしても食べれば快心の出来のオットケーキである。
だから要するに政治理念やイデオロギー、科学や倫理や愛や絆や理想や信仰、あるいは苦悩や絶望、不信や激怒とか、まあ何でもいいが、そんなものはオットケーキには何の関係もないわけだ。
 
  人類の未来?
  そんなもんこっちにゃ何の意味もないや。
  こっちはひたすらただのオットケーキだもんね。
 
昨年私はストラスブールやザールブリュッケンで暮らし、極超短期「もう一つ別の人生」をやった。
昨年末から愛用しているキーワードで言えば、別の「世間」を選んで暮らしたわけである。
 
ストラスブール郊外を歩き、ヨーロッパとも思えないチンケな安っぽい住宅群を見た。
そして、実際は見えているのに「自分のヨーロッパ」と合致しないので今まで見えていなかったのだと悟った。(「歩いてドイツに行く」)
 
ザールブリュッケンでは、大阪下町にも匹敵するゴミでいっぱいのドイツを見た。
特にフェルクリンゲン精錬所跡のモンストリスクな生産性の化身に猥雑ということの別の意味を発見した。
そしてどうしようもなく猥雑な大阪下町を今までとは違った目で見た。
(「そして再び、こてこての日常へと」)
 
私はその大阪下町のどうしようもなくエゲツない雑獏さを呪い、その対極にあると思えた「ヨーロッパの文化・芸術と生活」というものに憧れ続け、それだけを支えに生きてきたのだった。
そういうのって、ハハオヤの世間では全く認知さえされない無意味な指標であるのはいうまでもない。
 
しかし、私の憧れたヨーロッパも嫌悪した大阪下町も、双方とも私自身が勝手に作り上げた指標なのだ。
私が属している「世間」でのみ通用する意味ということだ。
そして自分が属している「世間」とは、実は自分自身のことなのだ。
 
「(世間では)みんなそうしている。そう考えている。そう思っている。
それが当たり前やろ。」
 
と、ハハオヤは言うのだが、よく考えてみればこれは全く逆であることが分かる。
どこにもそのような「世間」の実体はない。
 
ハハオヤが世間に合わせているのではない、世間を自分に合わせているのだ。
 
みんなと自分とがまったく同じという思考法に一人称主語の必要はない。
 
一度自分の属する「世間」を出て、違う世間、もしくは無世間で暮らせば自分の世間の実体が感知できるというものだ。
そのとき、今まで世間に隠れていた自分(=私)という個人が出現せざるを得ない。
西欧型社会で暮らし、初めて「世間」であったものが自分個人として認識できるのだ。
そしておずおずと喋り始めるのだろう。I think.. と。
 
「世間」とは、今はしかし、個人のことではない。
あくまで世界全体、ミクロコスモス=マクロコスモスの超普遍的自我である。
 
「ハハオヤの世間」と「私の世間」「他の人の世間」が並列して存在しているわけはない。
「社会」ではなくてどうして「世間」を使うのか、ここなんですね。
 
「世間」はあくまでひとつ(1)で、「違う世間」はゼロ(0)。
だから「個人」のように討論して折衷案を出したり、統計的に中間値を求めたりすることができない。
あなたの世間と私のとは違う。だから多数決で決めましょう、とかじゃなくて。
そんなの通用するのは小学校の学級会だけだからね。
 
ハハオヤの世間はハハオヤの主体が選択したものではなく、いわば宇宙開闢以来唯一無二のものとして常にそこに在るものだ。
主体もないので、客観的な存在として感知することもない。
 
私はどちらかというと「個人と社会」系の問題の立て方をし、疎外された少数者である個人である自分を鬱の主原因と考えていた。
確かに、それでは全く一方的な出口のない負け戦である。
私以外すべて他者という敵に満ちたこの世界では。
 
このとき、新たに「世間」と言うキーワードで問題を立てなおした時、思わぬ方向に脱出口という電飾が点っていたのに気が付く。
 
この「多数者に疎外された個人」という意味を持つ世間は、実は私が見ている夢に他ならない。
「私」がそのように見、そのように脳幹に出現させている私の世間である。
それどころか、私はハハオヤの世間の場合とは違い、自分で自分の「世間」を選択さえしているのである。
要するに見たいように見ているのだ。
 
ここからデカルトなら選択している「私」があり、そこを原点とすれば世界は存在しはじめる、というだろう。
サルトルなら選択すること、つまりエンゲージ、あっとアンガージュするということで存在を捕まえ、自分という主体を回復し、その自由を生きよというだろう。
 
この世は実は純粋に「私」の創造であり、どんなにつらくとも、そのように見たいので見ているのだ。
私の側の世間が全く見えないハハオヤを、それと承知して自分の世間に含み、その世間全体を私が選択しているのだ。
私は自分で「主体的に」選択し、この私の世間である世界を引き受けていることで生きているのである。
 
 
(困った・・・私が書こうと思っていた「認識の地平線」にはまだ到達しない。
上の結論風の文章は実は真っ赤なウソなんだが・・
本日はまだやることがあるのでここで一端コラムを閉じる。)
  
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