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[団塊の段階的生活] |
怒りと涙のオットケーキ(6) |
2014/1/10(金) 午前 2:31 |
(6)認識の地平線(2)
私が?
それは違う。
その「私」自身も「私の世間」が作り出しているものだから。
では、その「私」っていったい? ははぁ、来ましたね。
ich bin mich (I am me: 私とは自分だ)
その bin (sein) って何? というところで一昨年まではハイデガーだったのだが。
昨年から私は何となくフッサール♪
「主語を立てない日本語による哲学の構築を目指せ」という和辻哲郎の言葉を私は嘗てフライブルグでハイデガー研究者の大島俶子氏から受け取った。
主語を際立たせ、対称化しようとするのは sein の働きであり、考察の対称、つなり客観的対称として主体として主語「私」をどうしても必要とするのがデカルト以来の西欧哲学だったのだ。
しかし、この思考法を推し進めていくと自分自身を客観視し、対称化し、挙句の果ては相対化しまうという救いのない無間地獄が待っているだけだ。
そのような言語を使用する限り、たとえば個人のない「世間」という概念ですら理解できないだろう。
実は私自身もこのあたり、日本語を西欧文法的な発想によってしか文章化できないので「私」を多用しまくっているのだが。
この「私個人」を含めた世界全体=「私の世間」を生じさせているエンジンとは何か。
個人としての私の感覚や思考を通じ世界を可視化し、「私」をその世界の結節点として生じさせ、世界を、従って「私自身」を一意的に統一し、絶えず「存在」させているエンジン、と書けば「主体」としか言いようがない。
しかし、そのような主体・客体という主語で認知できるフェーズではなく、認知されるものではない、認知そのもの。認知していると認知する根拠であるところのもの。
このように言語で対象化しようとしても常により根源的なフェーズにすり抜けていく対象化できないソレ。
---<>---
宇宙物理学に「事象の地平線」という概念がある。
例えば宇宙が存在するとして、我々が光や電波で探査し認識しようとしても永遠に(無限の時間かけても)到達できない距離を仮定することができる。
この「事象の地平線」より以遠に何があっても、それは我々には一切認知できない。
物理的には一切何も伝わってくること(事物・情報)はなく、何ら作用も受けない。
この事象の地平線の向こうにある事象は我々には「存在しない」ものである。
しかし、依然として「存在しない」ものは我々の意識にその気配を投射し、事象の地平線の向こう側が「存在する」ことを感知させている。
人にはこのような「存在しない存在」が存在すると仮定する能力がある。
このことからパスカルは物理的にちっぽけな人間がしかし宇宙よりも大きいという。
今「世間=自分」を認識統一体(ホメオスタシス)と考え、この「事象の地平線」というイメージを流用し、ここで「認識の地平線」の概念を導入する。
各自が自分のセンサーで探索した世間という宇宙はそれぞれ異なり、自分の認知のボーダーである「認識の地平線」以遠にはなにも存在していない。
そのように一義的に定義された絶対宇宙の中心に世間の中の人はいる。
ううっと、どうもこのまま続けるとまた終わりのない連続記事になってしまう。
「認識の地平線」という概念を「世間」のボーダーと捕えると、いろんな派生概念が生起してきたので面白いと思ったが、纏める前に瓦解してしまったものも多い。
「認識の地平線」の彼方にある存在。
正月休みにハハオヤの世間と対峙し、倫理や法、正義や美意識、といった指標が適応できるのはただ同じ世間に属している者同士であるからということを苦く認識した。
互いに何の関係もない「認識の地平線」でさえぎられた宇宙であるミクロコスモス。
それが私の生の実相であり、そうであるのなら私が選択できる唯一の生はそこからでしかない、ということだったか、それとも「認識の地平線の彼方」にある存在を観想することで、この、こうでしかない宇宙から密かに抜けて行こうとする試みだったのか。
既にこのタイトルで書き始めた時点は遠く、当初もくろんでいたようには収束してくれなかったようだ。
いろいろ邪魔が入り、とりあえずこのタイトルはこれで終り。
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