この一様な、良い もう一つ別の団塊..
[団塊の段階的生活]

LE GRAND BLEU

2014/7/8(火) 午後 1:45
7月7日(月)
夜のスタジオプログラム・ズンバで適度な汗をかき、すこし身体が火照っている。
今日は昼間も遊泳していたのだが、やはりもう一度プールに行って身体を冷やしたい。
 
青白い光に照らされた夜の野外50メートルプールには今まで響いていたラテン音楽とはまったく異なる次元からの風が遠くから密やかに吹き渡っていた。
 
LE GRAND BLEU(ル・グラン・ブルー)という映画をご存知だろうか?
素潜りの名人、ジャック・マイヨールを主人公にしたリュック・ベソンの海洋・海中映画。
昼間の光よりもさらに水深2メートルプールの水の色は一様で、直ちに”Le grand bleu”というフランス語が想起される。
英語では”The great blue” 「圧倒的な青」。
ちなみにブルーの語尾は英語と仏語では違うので要注意(^^;
 
リュック・ベソンの映画はいろいろバージョンがあり、私の見た「完全版」のラストシーンでは、深い青海の底でイルカが異なる次元への扉を開き、静かにマイヨールが微笑み、この世界と決別していく。
素潜り300メートル、酸欠状態下のエンドルフィン分泌によるユーフォリー。
「死への憧憬」と読み取られてもしかたがない。
 
しかし深い青一色の世界では生と死は未だ分離せず、母なるイルカが招いていた扉の向こうは我々がまだこの世界を認識する以前の始原の光景である。
母なる海、LE GRAND BLEUに潜っていくのは実は胎内回帰願望に他ならない。
 
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例によって一通りメドレー四種を一人、できるだけ管理棟に遠い方の2コースでゆったりと泳ぐ。
呼吸は苦しくもないこともないのだが、ここで焦って掻く回数を上げると返って息が上がってしまう。
自分にあった呼吸ペースがあり、そのペースでゆったりと圧倒的な水「LE GRND BLEU」と遊ぶ。
 
今週の木曜には雨中遊泳を行い、背泳で上向きになった腹に雨があたり冷たかったのだが、夜の背泳にも思わぬ伏兵がいた。
 
ひとつの星も見えない曇天の七夕の夜。
ただ一か所、うっすらと月の大きさの淡い光が雲の向こう側から漏れている。
そいつを見ているとどうしても頭がコースロープに引っかかってしまうのだ。
どこまでも方向感のない黒と、全方向から取り囲むLE GRAND BLEUだけ。
ただ張り渡されたコースロープだけが人の世の秩序を守れと私に示す。
 
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ゴーグルを外しプールの真ん中付近に出て浮身で休息する。
前回冗談めかして私の水中蓮華座の秘儀を紹介した。
 
これは実は冗談ではない。
実際に私は水中で足を組み、背筋、従って首を直立させ、鼻から上だけを水面に出し長時間ただ浮遊する。
手は蓮華座としては定印を結びたいのだが、これは水中では自然ではない。
両手を前方に伸ばし、手首から上だけを折り曲げて水面上に出す。
少しインターネット上で検索してみたのだが、この浮身法に関する情報は皆無だった。
こんなことを水中でやっているヒマ人は世界中でも私一人という可能性はある(^^;
 
 
休憩用浮身術としては水面近くに大の字になり、目は水面すれすれ、胸の先と鼻だけを水上に出す背面浮身が簡単。
 
ズンバの前に、ヨガのクラスでシャヴァサナ Shavasana शवासनをやっている。
「死体のポーズ」。完全な休息。
新陳代謝を抑え、生体反応を限りなくゼロに近づけていく。
背面浮身は水面シャヴアサナに他ならないのだが、ただ脚がかなり下に垂れ下ってしまう。
通常の水深のプールではどうしても足が水底に付いてしまったりして浮身にはならない。
2メートルプールではこの恐れはないのだが。
 
背面浮身も習熟すれば両足の先が水面に出るように固定できるのだが、水中蓮華座に比べ呼吸の影響が大きく、体の重心を常にコントロールする必要がある。
 
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まず無限の空の黒。
そこに圧倒的な不定形であるLE GRAND BLEUが対峙し、この二極のダイナミズムが宇宙に始原のエネルギーを与える。
撹拌されたエネルギーがわずかに偏在し、形を保とうとする意識が生まれてしまう。
その時は私はただの意識であり、未だ私ではなく、始原の海のなかを意味もなく漂っていただけだが。
時に頭がコースロープに接触し、かろうじて上下左右の方向感が支配するこの世界に私は戻されてしまう。
 
古代インドの行者が生体感覚を消し去る気の遠くなるような瑜伽の行の果てに、この世をそのように見せている阿頼耶識を直観する。
我々が認識している世界の実体は主観(私)でも客観(世界)でさえない。
私が死に、世界は初めて自分が私の見ていた夢に過ぎなかったと知る。
 
    L'homme pense, donc je suis. ... dit l'Univers. (P.Valery)
    「人考える、故我あり。と宇宙はいう」(バレリー)
 
酸欠の死の苦しみがエンドルフィンの分泌で快感に変わり、生も死もなくただ存続しようとする始原の意思が私のファーズを反転させ、また違う世界の扉を開ける。
そのようにして私は前回の死を通じ、今回上映されていた生に入ってきたのだっけ。
   なんかあまり大したこともない、つまらん回だったがなぁ・・・
 
 
ご注意:
水中で実際に完全死体モードになるまでの無我に入ってしまうとチトやばいかも。
 
この一様な、良い もう一つ別の団塊..