LE GRAND BLEU しかたない、ひや..
[団塊の段階的生活]

もう一つ別の団塊の世代

2014/7/23(水) 午前 3:22
 
団塊の世代(堺屋太一)は決して大量生産の工業品にようにまったく同じ顔をし、今退職金と年金を抱えた老人初心者を全員一致してやっているわけではない。
 
私は大学受験に失敗し、というか最終的には意識的に当時の「受験体制」に組み込まれることを拒否し、エレクトーン演奏者等の第一次フリーター時代を経、結局東大阪町工場の労働者になって社会の片隅で束の間の安定を得る。
統計によると1965年当時の大学進学率はわずか15パーセント。(男子20%、女子短大を含め10%、尚、都市部給与所得層の男子子弟では多少話は違う)
だから当時は5人の内一人しか大学に進学せず、多数はそのまま高卒以下の労働者になったのだ。

5人いれば4人が非大卒労働者で1人が学卒者。
絵にかいたようなピラミッド型の学歴社会である。
2割の大卒者がそのまま社会の上層部に収まれるというわけではないのだが、8割
の非大学卒者にとってはもはや社会の上層部、会社幹部候補生への階段はないに等しい。
 
素直に大学に進学しなかった私は、その時点で進学して行った嘗ての仲間たちと決定的に違った道に踏み込んだという意識はあった。
多分、それを学歴劣等コンプレックスと呼んでも間違ってはいないだろう。
 
この学歴コンプレックスが如実にあらわれている文章を以前書いていた。
元はもっと長い書評文だが、「書評にかこつけて私憤を書き連ねる」典型的な私のスタイル(^^;  故、論旨に関係ない書評部分をカットして引用する。
 
-----
浅利誠・萩野文隆編「他者なき思想・ハイデガー問題と日本」藤原書店 1996 の書評(2000/10/11)より引用

高校時代、先輩C氏と受験戦争と呼ばれていた当時の体制批判論をたたかわせ意気投合していた。ぼくは密かに自分の「思想」への忠誠心があり大学に行かず、C氏は変革するにも大学は必要だと大阪市大マル経系に行く。一年後ぼく達は町でぱったりであう。

ぼくは母校であった卒業式粉砕派事件を語ろうとするが、C氏は「これからベトナム反戦デモに行くんだよ。じゃあね。」といってさっそうとセクト旗を担ぎながら去っていったのだった。
 
その後10年余りの時が経過し、ベトナム戦争が終結し、政治と革命の季節が完全に終わる。
ぼくは10年に亘るサラリーマン生活に嫌気がさし、職を辞めてフランス・ストラスブールで偽学生生活に入る。別にアナル派を慕っていったわけではないし、もちろんラクー=ラバルトがストラスブール大学で教えていると知っていたわけでもない。ただ、日本人が少ない所らしいというだけの理由である。
 
そこでもう一度同じ世代の日本人学生上がり大学周辺生活者達とのゆるやかな邂逅がある。
 
語学学校で同級になった一橋社会学系A氏(予備校英語教師退職)と親しくなり、彼のアパートに行ってよく一緒に勉強した。
別に彼と社会思想上の話をした覚えはない。しかし、彼にとってのストラスブール在住は当方とは違う意味があったはずだ。でも彼は全共闘世代の少し下、「日本では皆が8時間労働している。ぼくも一日8時間は勉強する。」と語る文字通り真面目な学徒である。
 
ストラスブール大学で日本語講座が新しく開設されるのに伴い、日本人講師を採用するという話があり、担当のMm.Tamba教授に面談にいったことがある。Mm.Tambaは仏文学の先生でフランス人だけど、旦那が作曲家の丹波朗氏であることから日本語講座の開設担当者になっていた。
後に当方の連れ合いになる女性が修士論文を彼女に指導してもらっていて、前者に仲介されて一応就職希望と表明しにいった。もちろんぼくには大卒資格はないので単なる冷やかしである。
その時B氏も日本人講師の口を志願していると聞いた。
 
B氏は京大哲学系の学徒で当方よりひとつ上、関西なまりが抜けない人だった。
A氏はB氏に私淑し親しく交流していたようである。
あるときA氏がB氏を評して「あの人は全共闘活動家としての自己批判から当地に引きこもり、何かよくわからないけど総括しようとしているらしい」とある種の感嘆をこめて語るのを聞く。
 
そのときもぼくは何かしらの違和感を覚えたのだ。
挫折した革命家であったとしても、徹底的な自己批判をするにしても、とにかく大学という場内での話であればなんとでもなるんだなぁ。
予備校講師でも日本語講座講師でもなんとでもしながらずっと大学周辺で棲息していけるものなんだ、とにかく大卒切符=知識人証明書さえあれば。
 
その後B氏が首尾よく日本語講師に就任したかどうかは知らない。当方は下級労働者としてバブル期直前の日本経済にいやいやながら復帰を果たし、永遠に大学知識人的世界とは無縁な日常に埋没して現在にいたっているのだから。
 
68年の全世界を巻き込んだ学生の革命闘争は先ずストラスブール大学で発生し、ついでパリ・カルチェラタンに飛び火する。一年後に東大安田講堂が占拠され、東京神田お茶の水通りが神田解放区と呼ばれる。その明治大学学生会館3階に勝手に入り込んでたった一週間だけぼくとこの若き知識人達の白昼夢的イベントが交差する。
あの時、確かに社会はバリケードの中の革命思想でもって変革されるかに見えた。狂熱の時が過ぎるとバリケードの中のエネルギーは浅間山荘・連合赤軍へと変形していく。
そしてあの時既成の体制変革を叫んだ学生達はやはり今大学で教え、フランスで日本語を教えているのである。つまりは結局大学という中だけでの話なのだ。
 
社会が大学を変革することがあっても大学が社会を変革したことはない。
君たちのいう革命は知識人切符を持ち大学周辺で繋がっていれば食うには困らない仲間内での革命ごっこに過ぎなかったのか。
結局実際の革命が起きてしまえば自分達が無用な階級として真っ先に抹殺されると計算してたということではないか。
生きるために使用する知だけがあって、知の為に生きることは一度としてなかったのではないか。
というような恨みつらみがぼく個人の内側には抜きがたくあることが判る。
 
あれから30年を経て未だにあのことの「総括」がきちっと提出されるのを目撃したことがない。
未だに日本文学は連合赤軍事件を、例えばドストエフスキー「悪霊」のような形ででも、扱ってはいない。本当に君たちは血のしたたるような「知」を生きたのか?
 
 
浅利誠・萩野文隆編「他者なき思想・ハイデガー問題と日本」藤原書店 1996
http://hemiq.a.la9.jp/books/2000.html#065
 
-------
 
年金支給勤務最低年期が明け、完全に現役を退くまで、私はこのようにずっと学歴社会の心理的犠牲者であり続け、同世代の大卒者に対して一種逆恨みのような反発心を常に内に飼っていたのだった。
 
近年になって高校時代の仲間とコンタクトをとりたいと思うようになった。
きっかけは当時親しかった同窓生の訃報に接してからだった。
私の方の学歴コンプレックスも飛び道具(海外留学)を使用し何とか収めていることだし、彼ら進学組の方も引退してもう今更学歴社会でもなかろうと。
それまでに私には住所や電話番号を交換するような一人の友人も残ってはいなかったのだ。
 
主としてインターネット上で高校時代の友人の消息を追ったのだが、結果はあまりはかばかしくなかった。
Facebookの自己紹介文等で嘗ての友人数名が同定できたのだが、メッセージを送ってもいずれも返事がなかった。
まあ、彼らにとってみれば今更私と語ることなど別にないのだろう。
それはそれでいい。
彼らが本当に語るべき友人関係を形成していったのは大学時代のことだろうから。
 
----
やっと最近、嘗ての高校のクラブ仲間一人とコンタクトをとることができ、メールのやりとりが復活した。
昔語りの何かの折に、私にとって思いもかけない事情があったのを聞いた。
進学して行った「大卒切符保持者」の間でも消し去りがたい断絶が刻印された時代だったのだ、と知ることになる。
 
彼は歴史学徒であり、ストラスブール大学で先ず刊行された歴史学雑誌 ANNALES(年代記)に拠ったアナール派の既存の歴史学批判に共鳴し、アカデミズム批判から体制変革へと進み、やがて全共闘と称される学生運動に主体的に関わっていった。
 
学外からは全共闘の活動がクローズアップされた報道しか見えなかったのだが、大多数の学生はいわゆる「ノンポリ」(non-political)であり、この「物言わぬ多数者」とアクチブな活動家との間には越えがたい対立があったのだ。
そしてこの意識の断絶は当然人間関係全般も傷つけることになり、全共闘運動が終焉した後も傷口が完全に塞がることはなかった。
 
高卒の私がやっかみ半分に「大卒切符保持者」と揶揄した5人に1人の幹部候補生の中でも、その後の人生的なスパンで決定的に多数者と決別し、社会の中での自分の位置を自分で探っていかざるを得ない少数者もいたのだ。
 
 
ここにも「もう一つ別の団塊の世代」がある。
この人達には大学時代はいわばマイナスの学歴として作用した。
元より「普通に」会社に勤めるという選択肢はもはやあり得なかった、と彼は私に述懐する。
 
いや、多分その多数者だった「ノンポリ」の中にもいろんな事情を抱え鬱屈した人生を送らざるを得なかった人だって、もちろんいるはずだ。
 
学歴は人の数多くの属性の中のただのひとつのファクターにしか過ぎないのだ。
学歴だけではなく、他にも無数の人生の分岐点があっただろう。
それぞれが夫々の事情に応じ、自分で選択し自分の位置を独自に探っていく以外にない、というのが本当のところだろう。
 
 
「団塊の世代」という同じ背景をもち、ひとつの顔をした世代があるわけではない。
1947−1949産のさまざまな事情と経歴を持ったそれぞれの個人が居るだけだ。
 
シニア料金世代となって私はやっと内なる学歴コンプレックスを完全に払拭できたのかも知れない。

LE GRAND BLEU しかたない、ひや..