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[団塊の段階的生活]

シベリウスの「交響曲第八番」

2014/8/23(土) 午前 2:09
8月だけ会員になっているベルリンフィル・デジタルコンサートホール視聴での話。
 
2010年5月のベルリンフィルの定期演奏会はシベリウスの交響曲3曲だけが演奏されるという異例なコンサートだった。
 
先ほど視聴したところ、比較的有名な第五番は前半で演奏され、後半ステージでは何と第六と第七を切れ目なしに演奏するという演出に思わず「!!」と叫んでしまった。
 
交響曲のみの演奏会というのも異例だが、5、6、7 と続けて演奏するにはこうするしかないかもしれない。
第五はいわば通常の4楽章形式の交響曲で、静かに、そして豊かに盛り上がってコーダに至る、いわば拍手をしやすい完結感のある曲。

付け足しだが、しかし最初に聞いた人は拍手のタイミングに少々戸惑うかも(^^;
 
対して第六は喜遊曲とでもいうような比較的自由な内容の交響曲。
静かで少し痛々しい回想的な響きで始まり、終曲も過去回想の中に閉じていくように、静かに終わる。
ここで拍手をすることをためらわせる深い余韻が残る。
 
最後の第七もさりげない序から開始するのだが、完全に古典的な交響曲の形式から離れ楽章の切れ目がない幻想曲風の楽曲になっている。
遠くで憧れを呼ぶような金管のライトモチーフが密やかに各楽章の終わりをつげているのだが、明確な終止や休止は一切ない。
 
第六の余韻の中に第七の序は開始されねばならない。
ここで拍手で現実の世界に切り裂かれることはやはり考えられない。
第六の最後の和声に続けて第7の序を開始させたラトルは流石である。
 
 
今、そのように演奏されたコンサートを聞くとシベリウスは第六番から交響曲作家として大きな変貌をとげたという思いが強くなる。
そして終に交響曲第7番ではもはや交響曲ではなくなってしまっている。
 
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ジャン・シベリウスは長命な作曲家で、92歳まで生きた。(1865年-1957年)
しかし、最後の作品の発表は60歳、残りの32年間一切作品を発表しなかった。
 
1925年に交響詩「タピオラ」を発表後も、創作をやめることはなかった。しかし、自己批判的性向が年を追って高まり、なかなか作品を発表することができなくなっていった。
世間では、交響曲第7番以後、いやでも交響曲第8番への期待が高まった。シベリウスの手紙に「交響曲第8番は括弧つきでの話だが何度も“完成”した。燃やしたことも1度ある」と記されている。(wikipedia)
 
晩年は郊外の家に自適し、世界中の短波放送をモニターし自作の演奏が放送されるのを楽しんでいたという。
死去して後、「やはり交響曲第八番は書かれていなかった」ということがニュースにもなった。
 
 
私は高校生時代以来のシベリウスのフアンである。
特に清冽な管弦楽法と押しつけがましくない静かに盛り上がっていく技法がなんとも好ましかった。
 
シベリウスの交響曲のレコードをかけ、せめてものごちそうを食べるのが、私の誕生日の一人きりの祝祭だった(−−;
青年期にはチュルクのシベリウス博物館、退職してからはハーメンリンナのシベリウスの生家を訪ねもした。
 
 
 ↑
ハーメンリンナ(フィンランド)2006.8
 
 
 
   
 
文学青年もどきであった私が高校生時代から温めていて、未だ書いていない伝記小説の構想があり、タイトルだけは最初から決まっている。
 

未発表hemiq小説「交響曲第八番」レジュメ
 
愛国的な要素の強い交響詩「フインランディア」を書いたシベリウスはフインランドの国民的作曲家である。
シベリウスの青年時代はフインランドはロシア皇帝がフイランド大公を兼ねる大公国で、実質上はロシアの属国だった。
当然ながら民族的なアイデンティティがはっきりと異なるフインランド人の祖国独立への思いは強く、ナショナリズム運動は高揚していく。
 
ついでだが、日露戦争で日本がロシアに戦勝したり、フインランド人のオリジンがマジャール人と同じ東洋系とされること等で現在でも対日感情が非常によい国とされている。
 
シベリウス青年が発表した「フインランディア」はロシア当局によって2度にわたり演奏禁止曲とされた。
確かに初期のシベリウスの音楽には非常に明確な民族性があり、音楽的にも非常にポピュラーな作りが多く、テーマも民話やフィンランドの民話や神話に題材を取っているものが多い。
シベリウスが50歳や60歳になった時にはフィンランド政府が国家功労賞を贈っている。
 
しかし、交響曲作家としてのシベリウスの作風は次第に内面的になっていき、それにつれて華やかなポピュラリティにあふれた音楽は沈み込むような静かなものに変わっていく。
本当の芸術家であれば作風が深まっていくことは当然だろう。
しかし、具象性が希薄になり抽象の度合いが高まりもする。
この後期の交響曲5、6、7の変遷をたどればそれは非常に明白なことだ。
しかし、多くの聴衆が熱狂するのはやはりフィンランディアの作家シベリウスだったのだ。
 
高校生の私は「トニオクレーゲル問題」に捕えられていたのだが、シベリウスの生涯にも同じテーマが鳴り響いているのに気が付いた。
 
交響曲第七番の後、シベリウスがもう一つ交響曲を書くとすればどのような音楽になっていたのだろうか?
第六番で各楽章の性格を自由に換骨し、第七番で古典的な形式感を排除した後の?
 
第八交響曲の草稿を幾度も書き直したことだろう。
長命だったシベリウスにはいくらでも時間はあったはずだ。
しかし終に発表することはなかった。
発表することが出来なかったのだ。
 
シベリウスは第八交響曲の草稿をすべて集め、自宅を出て森の奥に踏み込んでいく。
森の外れの切り立った崖から眼下はるかに蛇行する渓流が望める。
空中に放たれた交響曲第八番の草稿はあくまで白く雪のように舞い、やがて深い大地の沈黙の中に呑み込まれていった。
 
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この最後の場面のイメージをもう50年も私の中に飼っている。
当時はフィンランド=フィヨルドというようなワンパターンのイメージがあったのだろう。
実はフィンランドで探したのだが、かの地にフィヨルドはなかった。
写真はノルウェーのスタバンゲル・フィヨルドで撮影したものだ。
 
しかし、私の残り時間もそろそろ無くなりつつある。
この辺りで、私も「交響曲第八番」の草稿を闇の底に放り投げるしかないようだ。

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