カトマンズで死ぬ カトマンズで死ぬ..
[団塊の段階的生活]

カトマンズで死ぬということ(2)

2015/3/28(土)21:5
(2) それでも老いたクジャクは色あせた羽を  (2015年3月初旬)

後で富士山の麓で「老い遅れに注意」(黒井千次「老いのかたち」中公新書)という文言を読み思わずニヤリとした。
しかし、私のカトマンズ行き直前の心理状態ではそのような揶揄を楽しむような余裕はなかった。
身もふたもなく直截的だが勝手に「死に遅れに注意」と言い換えてみる。
まあそんなところだろう。

身もふたもなく、ついでに言うと、オスという性は性交し精子を供給することが生物としての本来の生きる目的だったはずだ。
端的にはクジャクのオスが羽を拡げているイメージがある。
とにかく自分の存在を異性にアピールすること。
絶えざる自己顕示を続け、できるだけ多くの自分のタネを残そうとする。

生殖能力のなくなった個体は速やかに消滅していくしかない。
しかし人間のオスはこの後もかなり長く生き続ける。
一説によると、祖父としての社会的役割が後天的に生殖期を過ぎても消滅しない理由であるとか。
真社会性生物(「人類はどこか来て、どこに行くのか」エドワード・O・ウィルソン)に進化してきた人間では生殖だけがオスの生存理由とは言えなくなっているのは確かだ。
しかし依然として本能としてのオス性は男性を支配する。

富士の麓ではまるで女学生のように集団ではしゃいでいる老女達に遭遇した。
日頃通っているスポーツクラブでも老女達はやすやすと楽し気に群れている。
彼女達は生殖能力がなくなると、すっぽり抜け出たように元の子供の頃の屈託のない無性・中性の日々に帰っていくようだ。

しかし男性にはそのように、きっぱりとした閉経期はやってこない。
もう肉体的には男性では無くなっているというのに、どうしてもオス性が抜けくれない。
同性の群れの中に嬉々として埋没できず、絶えず「オレはオレだ」と言い続け、群れでの格付を素早く値踏みし、あわよくば序列一位の座を奪おうと冷めた目付きで未だに他者を覗っているのだ。
群れから一歩離れ「オレはオレだ」と自己主張しようとする、決して老熟しようがない魂は、しかし、自分が最早単なる死にかけている一個のオスの無名の残りカスでしかないことも完全に自覚できているのだ。
生物としての本質的な矛盾を自分の中で体現してしまっている人間の歳老いたオスは哀しくてやりきれない。

80を超え、すべての過去の怨念を忘れ嬉々として毎日を過ごしているようなハハオヤ(義母)と80を超えても満たされない自尊への鬱屈を常に酒で紛らわそうとしたチチオヤ(義父)。
男性の平均寿命が短いのは、その辺りの事情もあるはずだ。

オスはただ生きていることだけでは日々を完結できない。
老いた男性とは絶えず「自分とは何か」を内省してしまう矛盾した存在なのだ。
人間だけが「死に遅れて」いる。
生物として"想定外"の寿命にまでとっくに達してしまっても尚生きている。

年老いてまだ死ねないでいるクジャクは色あせた羽をそれでも拡げようとするしかないんだろうか?

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私側の初老性鬱の顕在化とはパラレルに確実にカトマンズ行きは進行していく。
もう何もする気力も残っていないのに航空券が届き、日程が迫ってくる。



3月5日(木)の夕方には関空に行き、深夜便でバンコク経由でカトマンズに向かう・・・のか。
新しい靴を買ったのだが、靴を比較し履き替えたりを繰り返したことで左足の第一指の骨をすっかり痛めてしまったようだ。
とてもヒマラヤトレッキングに行く状態ではない。

しかし、もちろんもう旅行計画自体を止めることはできない時期になっている。
航空券、新しく買った靴、サングラス、「地球のあるきかた」本等物理的なモノたちのキャンセルならば言わば損切し、損金を計上すれば済むことだ。

取得した有給休暇の二週間には、ヨメが過去5年間に蓄積した海外旅行への期待と楽しみの総体が集約しているのだ。
そのような無形の思いいれの総体自体はキャンセルしようのないものだ。
そのことは私達の生活の基盤自体を損ねることになってしまう。
というよりも、自分が選択し主体的に受け入れてきた私の夫としての存在意味を根底から揺るがせてしまうことになる。

ここでキャンセルすれば私は自分の夫としての基盤があやうくなる。
自分がもう連れ合いを庇護しつつ、共に新しい体験を楽しむ伴侶であり続けるという立場を失ってしまう。
そして同時に家庭内要介護老人であること受け入れ、男性であるという本能的分業属性を放棄せざるを得なくなってしまう。

私は嘗ては色鮮やかな羽根を拡げ、ヨメを獲得したのだった。
もう羽は色あせボロボロになっているのだが、しかし力をふりしぼればもう一度くらい羽を拡げるはずだ。
最後に一度だけであれば。

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「脚、大丈夫なん?」
「行く。死ぬ気で歩く。でも今回でもう最後にする。」

私はただの老いぼれのフヌケになって生きながらえるより、羽を拡げたクジャクのまま死ぬことの方が自分にふさわしいと思えた。
もちろん、現実に「死に花を咲かせる」というような具体的な劇的行動を意図していたわけではない。
とにかく一度決めたことは絶対に実行するのだ。
たとえ途中で失敗しようと、失敗を恐れて最初から止めておくよりは余ほどましだろう。
中止するのは直ぐ後ろから迫って来ている鬱の影響下でこれからもずっと生き続けることに他ならないのだ。

カトマンズで死ぬ
こんなところで欝とつるんでバカバカしく生き続けるよりは。

そう決めると、鬱の気配が幾分後退していく。
もとより鬱の気配なんて気分ひとつで劇的に改善できるもんだ。

旅行直前にどうしてもクリアしておかねばならない事務的手続きの遂行も幸いする。
欝になりかけた時は何も考えず、とにかく事務仕事を淡々とこなしていくに限る。

カトマンズの旅行エージェントにメールでコンタクトし、カトマンズ<-->ポカラ間の国内便の手配を交渉。
「地球の歩き方 ネパール編」を購入後初めて読みはじめ、ヒマラヤトレッキングの具体的な計画をヨメと協議しイメージトレーニングを行う。
旅行用のこまごまとした用品をイオンモールに買い出しに行く。
手持ちのリュックサック用の小さい錠前・結束具等。

新しく購入した靴は結局トレッキング用には使用できず、いろいろ試した末に内出血必至の登山靴+常用している運動靴+サンダルと決定。
また内出血したとしても、もう剥がれる爪はない。
死ぬ気で歩くか死んでも歩くか。
いいよ、もうスポーツクラブのスタジオで二度とステップを踏めなくなったとしても。
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カトマンズで死ぬ」と言うと当初何となく秘境ロマン風に聞こえ、なかなかソソられその気にさせてくれたのだが、旅行案内や現地エージェントとの情報に精通してくると、ネパールはどうしてお手軽な観光地であるという事情も分かってくる。
日本からの直行便こそ今はないが、ヒマラヤトレッキングは人気の海外旅行地で、カトマンズは公害が深刻な、かなり姦しい都会らしい。

ポカラからアンナプルナ方面への3〜4泊の標準トレッキングコースはシーズンたけなわだと大勢がぞろぞろ歩いているヒマラヤ銀座だそうだ。
当初、現地の旅行エージェントにお仕着せトレッキングコースをアレンジしてもらおうと思っていたのだが、ガイドやポーターの手配は現地のホテルで簡単にできるようだ。
もっと言えば、ヒマラヤトレッキングの雰囲気だけ味わって、どこからでもさっさとタクシーでポカラの町まで帰着することだって可。
現地旅行エージェントとは日本語でのEメールのやりとりで交渉でき、それなりの信頼感もある。
カトマンズのホテルをHOTELS.COMで予約、こちらも日本語でOK。
結局、後のトレッキング子細はカトマンズに着いてから手配することにした。

具体的な旅行のイメージが見えて来、旅行用品も大体リュックに詰まってくる。
ネパールではトイレの水洗率が低いのでトイレットペーパーも持っていく、とヨメに言われ自宅のトイレのロールペーパー二個までリュックに入れた。

出発準備が何となく整い、最後の見直しをしていると「さあ、明日から海外だ」という旅行気分が仄かに。 そして胸の高まりさえも。

カトマンズで死ぬ」という呪文は今回の鬱には多分に有効だったわけだ。


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