崩壊する世界と遍 炎上言語学 ..
[団塊の段階的生活]

高齢者問題・少子化問題

2016/10/7(金)2:32
ええと、実は私コメントの付け方を間違えてましたのでした(^^;

私の発言は上の島津寛子サマへの返信のつもりだったので、石川さんの記事へのコメントではなかったんです。申し訳ありません。

私のコメントは中身の半分が当事者しかわからない伏線と冗談なので、石川さんからまともに長文ご返事をいただき面喰ってしまいました。
ですから微妙に主旨がかみ合っていないのですが、せっかくですから、今回は私の元スレッドの論旨とはあまり関係なく石川さんへの返信をアップさせていただきます。


高齢者への施策としてだけではなく、このようなアプローチは子ども世代への目配りも含むのだ、との御指摘は私の元コメントでは元よりまったく論ずる意図がない部分でした。
また、「腹を痛めて産んだ子供達の為に私達親世代は何をしてやれるのか?」という問いかけも、子供を持たない人生を選択した私にはかなり共有しにくい感覚と言わねばなりません。
それが石川さんの生の感覚に基づいた意思・信念であることは疑いません。
しかし、その先行世代の責任感は親(もしくは大人)一般として類型化された定型的抽象物でしかなく、公的施策の前提として万人が無条件に共有すべき自然律である、とまでは思えないのです。

1)高齢者問題とはどういう問題か
私の元コメントの冗談以外の基調は、人の生き方は多様であって、惨めで孤独で手のかかる高齢者というような一般化で括ってしまってはチト困るのだ、ということでした。
何もしないよりも「まずはやってみる」ことは「高齢者問題」を抱えているとされる自治体や、その施策施設にとっては有効な方法論なのでしょう。
しかし、それはあくまで問題を抱えている側にとっての有効性で、個々の高齢者個人にとって有効なのかはまた別の話です。

「高齢者問題」とは「高齢者が問題だ」とする社会の問題だ、という見方があります。
人間が高齢になれば当然いろんな不都合が生じてきます。
それを無くすことはできない。
では放置する?
それもいいんでは?

まあ、その時の社会の許容範囲内で手当てをすればいい。
わざわざ赤字国債というような無理な借金をしてまで福祉国家という体面を繕う必要はない。
個々の老人がどう考えているのか、という声ではなく、高齢者問題というとき、国家・社会の体面の方が施策の基盤になっているように思える。
どのようにして「問題のある高齢者」を隠ぺいするのか、は少なくとも高齢者個人がどう生きるのかとは全く関係のない次元の話。

子どもと一緒なら高齢者が喜ぶだろうというのは、実際の老人の声ではないでしょう。
これは石川さんも「発想としては家庭と同等の効果は得られにくい」とおっしゃっているのに相似します。
もちろん実際の介護施設の現場での障害のある高齢者への対応は切実な問題でしょう。
それでもすべての高齢者が実際に福祉施設での万全な対応を要求しているとは思えない。

私は介護保険制度が破綻しない程度の枠内の介護をしていただければ有難くお受けします。
それ以上は不要。それが私の寿命でしょう。
ちなみに私は「高齢者の医療の確保に関する法律」でいう高齢者です。

私は独身生活が永かったので、働けなくなるときが死ぬときと単純に考えて生きてきたわけで、国家や社会に特別に期待するところは何もありません。
まあ、家族には少々あるかも(^^;

なんだか曽野綾子の「老人は自分で自分の死期を決めろ論」みたいですが、実はそうなんですよ(^^;
でもあのお方とは違い、人の生き方というような倫理に関する所信は他人に押し付けるものではなく、あくまで私個人だけの倫理観であると銘記しています。
曽野綾子女史にはどうもこの認識がないようです。
自分の倫理が他人にも無条件に通じるという楽天的な世界観では、まったくその悪意の攻撃者と同レベルな排他的思考法でしかない。
もちろん私は人の生き方の多様性を言うからには、あなたの考えは私と違って当然と思っています。

福祉施策を検討することが「高齢者問題」の解法ではなく、現行社会の高齢者の捉え方、それを修復すべき問題であると考える社会の気分、倫理観、文化の方に本質的な問題があるのではないのか、と私はひとりの高齢者ととして指摘しておきたい。
というのが私の意図でした。


2)ついでに(^^;小子化問題ということについて。
曽野綾子の名が出たついでにもう一つ。
野田聖子議員が高齢出産を希望し、人工的な手段で出産して得た障害児を公的扶助を受けながら育てていることに関し、曽野があまりにも個人のエゴに過ぎると発言した問題。

これも倫理の適用範囲の個人差という他はない。
そんなもの決して他人に押し付けるもんじゃない。
実は私も個人的には社会的扶助をアテにしてまで子供を産むという方の社会観にはとうてい馴染めない、とは思うのは事実ですが。

時の政府が小子化を問題とし、子ども手当等の施策をする。
そして産んで見れば保育所が充分設備されていない。
そして、ある母親が日本社会を呪ったのが話題になった。

子どもを産むという決断は自分自身で、それ相応の覚悟を持って、なされるべきでしょう。
子供を持つという決断の責任はすべて自分が負うという覚悟があれば「政府が産めと言ったじゃないか!」というような他人任せではなく、石川さんのように「子どもの世代の為になにが自分でできるのか?」という主体的な施策への関わりも可能になると思われます。

それはそうとして、私は自民党政府が「少子化が問題である」とすること自体が問題であると考えています。
「人口を増やし、労働力を増やし、生産性を高める」という政策は単に経済の拡大だけが政策の骨子であるということに他ならない。
私はあくなき経済的拡大再生産の追及は20世紀でとっくに終わったと思っていたんですよ。

子どもを産むのも産まないのも個人の生き方の問題で、決して時の政府が時の利害に応じどうこうせよという政策に全て委ねるのはあまりに楽天的すぎます。
政策を言うなら、我々の社会の気分が小子化に向かっているとすれば拡大再生産経済ではない政策、縮小撤退経済策(?)を立案する政治があってもいいわけです。
しかし全くそのような気配はなく、相変わらず勇ましく経済発展だけが我々の生命線であるという認識しか現行政治の場では見えてこない。
私は経済(=「お金」)を政治の唯一の目的にする限り諸処の問題は無くならず、無限に矛盾のみが拡大していくのは必然だと考えています。
なぜなら、拡大再生産論とは欲望を無限に追及するということに他ならないのですから。
・・・
しかし、この件は大きく当初のコメントの範囲を大きく逸脱します。
もう既にそうなってるじゃないか(^^;
もとより私の世界観は一般性に欠けるとの自覚はあるので、今回はここまでにしておきます。
当初はお詫びと、それにも関わらずいただけた真剣なコメントへのお礼として、詳しく私の元コメントの意図を述べるだけのつもりでしたが。
このような長文になってしまい、まったく申し訳ありません。
またよろしくお願いいたします。


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