高齢者問題・少子 企画的冬枯れの1..
[団塊の段階的生活]

炎上言語学

2016/10/13(木)14:7

(1)ウチコトバとソトコトバ

あまり深い意味もなく、ある対象に反感を抱き、内輪、つまり仲間ウチや家の者にグチることはある。
時には演出効果として罵詈雑言も交えるだろう。
私は「アホか!」とは言うが、「許せない」、「死ね」、「逮捕せよ」という甘ったるい、何の真実味もない類いの罵倒は元より使わないのだが、ウチワではそう叫ぶことがあっても別に不思議なことではない。

私の父親は南海ホークスフアンで、相手球団・阪急ブレーブスの黒人選手バルボンに「黒ぉて、笑たら歯しか見えん!」「クニ帰れ!」とかよくテレビに罵声を浴びせていたのを思いだす。
しかし、父はもしネット時代に生きていたとしてもこのような罵声を外に流すことはなかったろう。
そこには厳然と内輪のコトバと外に出してもいいコトバの区別があった。

ウチコトバ:
仲間ウチ、家族内で使う、あまり言語レベルや論理上のフィルトリングや知的編集がされない感覚的な日常の言語。

ソトコトバ:
あまり親しくない知人やまったく面識のない者、あるいは公的な場で公式に喋る時の用語レベルや文法、論理を知的にコントロールして使用する言語。

(2)話しことばと書きことば

また、次の区別も嘗ては厳然として存在していた。

話しことば:
対話者と実際に対面して使用する、音声による一過性の言語

書きごとば:
1)日記・手紙のレベル
時間を経た後でも残っていく永続性を意識し、言葉のレベルや論理に破綻がないように推敲し記載されることば。
2)公報レベル
対話者が特定の個人でないとき、公に対する広報として十分な客観性を持たせ構成し表記されることば。

最近、商店や施設の掲示物の表記が余りに話しことば風なのが気になっている。
敬語を多用し、結果まったく意味不明になってしまっているケースも多い。

    こちらはスタッフ専用でございます。
    お入りにならないようにお願い申しあげます

英語が添えてあり、そちらは ”Way out” と実に簡潔。

    「お願い
    こちらのドアを開けられますと
    氷があふれる事がございます
    下側のドアをご利用くださいませ


→「このドアを開けると、氷があふれ出ることがあります。
下側のドアを使用してください。

とするのが書きことばなんだが。

この日本語掲示の冗長性は話しことばをそのまま書きことばとするところに生じる。
しかし、この区別をしない場面が著しく増えている。

ウチコトバ」をそのまま「ソトコトバ」にしてしまう。
外では「話しことば」をそのまま「書きことば」にすることが一般普通化してしまった。


私の父は外では喋れない人だった。
方言のウチコトバしか持っていないので結婚式のスピーチ等はまったくできない人だった。
今でも親戚の結婚式での父の珍妙なスピーチ(言い間違いの多発等)は語り草になっている。
手紙や日記を書く習慣もないので主語・述語を意識するような書き言葉も使用できなかった。

「ワシ、なんにも難しいことは分からん。」というのが口癖だった。
(ま、この後に「が、それでもこの家では一番エライんや。」が続く。
「おんなじで、天皇陛下が日本で一番エライ」という論理の流れだった。)

しかし、現在でもこのような「内輪の話しことば」しか使わない、使えない人口が日本社会の大多数を占めている状況はそんなに変わっていないはずだ。
別に普通に仕事をしているかぎり、このソト用のオフィシャルな書き言葉を使う必要はない。
大阪では大阪弁しか喋れなくともまったく支障はない。
しかしそういう者でも報告書なり日誌なりを書こうというときは大阪弁をさけ、標準語に似せる努力をするのが一般的だ。

「カラダ、エラかったんで、仕事になれへんかった」
     ↓
「体調不良に付業務遂行困難。」
私の日記ならそうなるのだが(^^;

しかし現在ではそのような漢文口調の日記を書く人もそう多くないと思える。
「身体の具合が思わしくなく、仕事ができなかった。」くらいか?

私の印象ではむしろこのような標準日本語を書く習慣のない者の方が多いという印象がある。
「しんどい。仕事できん。」というような「話しことばでウチコトバ」レベルの言語がネットにあふれている。(「保育所落ちた。日本死ね。」等)

私の父には自分は内輪のハナシコトバしか喋れないという意識があり、多数者相手に意見を公言することは一切なかった。
テレビに向かっては「バルボン、アホんだれ〜!」と叫ぶのだが、これを「人前」でそのままさけぶということはなかったはずだ。

今、急にネット社会になってしまった。
殆どのコミュニケーションは常に手元のスマホで行っている者も多い。
家人に電話するような感覚でSNSにつぶやく、という事態になっている。
これではウチ&ソトコトバの区別、話&書きことばの区別をしなければならないという意識を持ちにくい。
そのような発言の言語レベルを考えなくていいなら、自分の生のウチ&話しことばで発信できればラクなのだ。

父が「バルボン、アホんだれ〜」と内輪で叫ぶのと同じレベルの言語でSNSに無意味な罵倒を流す者があまりにも多い。
本来なら公式に喋ることが出来ない「ワシ、難しいことは分からん」という者にも自分のことばを世界に向けて発信する仕組みがいつの間にかできてしまっている。
この時、ネットの匿名性が自分の発言に責任を持つという意識を無くしているのは自明だ。

父は大阪球場で大多数の南海フアンに囲まれている情況では「バルボン、帰れぇ〜」というヤジを飛ばしていた記憶がある。
これは自分が多数のフアンの中で個人ではなく、匿名のフアンの一人になっているという意識がある故だろう。
情況は明らかにソトだが、意識はウチ、という感じか。

匿名での発言が可能という情況では「ソト」のコトバでなくウチコトバで発言しても自分に直接反論や嘲笑が跳ね返ってくるおそれはない。
匿名であれば公に発した言語の責任を担う必要もない。
そしてフアンという同類仲間に囲まれ、安心して目障りな者へ罵倒を飛ばす。

そのようにして発信される無責任で意味もない罵倒がネットで増幅され、社会システムの根底を揺るがすまでになってきた。
思わぬ方向から「民主主義」というシステムの一方の悪しき帰結が現実になったのだ。

それを「衆愚社会」と呼ぶ。

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