グランビア大阪で 夏の遠い花火の夜..
[団塊の段階的生活]

幾度目かの夏

2017/8/2(水)14:4
8月2日(水)
7月の猛暑も落ち着いたのか、それともこちらの身体が暑さに慣れてきたのか、何だかやっといつもの夏が還ってきたような気がする日々になった。

昨年から二つ程自分の人生の終焉を実感としてじっくり味わえる経験をした。

脳ドックを受診したら脳幹動脈がかなりヤバく、いつでも脳梗塞で逝けるお墨付きをもらったのがひとつ。

そうか、そういうことだったのか、と。

昨年、やたらと近隣アジアに旅行した一方のモチベーションは「死に場所探し」だった。
台湾やベトナムの田舎町で確かに子供の頃、雑草にまみれて遊んでいた自分、そんな感覚が蘇るような。
少なくとも、この違和に満ち満ちた私の周囲の日本でよりも、懐かしい生活感。

   ここで無邪気に生き、それでも飽きたら ふと死にたい、と。

少なくとも・・・


・・・しかし今年二月に長期滞在する予定だったベトナム行きがなくなり、本当はもう外国に出かけるのもおっくうになっている自分を確認。

その代り、盛んに大阪の夜の街に出かけ、ちらりとほの見えた・ときめき・もしくは・憧れ・の類を追う試みにのめり込むことにもなった。
不発だった私の青春の燃えきらなかった情熱があったとして、その対象ではなく「情熱そのもの」が追体験できそうな予感があった。
もちろん、私は情熱が自発するほど若くはない。
しかし、今は過去には実現しなかった妄想にのめり込める時間と経済的裏付けはある。
若さの代りに時間と金が、とっくに失った生への情熱をもう一度回帰させてくれるかも。
夜の街の彷徨と探求。
それなりに自分が興奮できる対象を見つけたと思ったこともある。
回春か。

その目で見れば、多くがそのような場所でそのような少々後ろめたい黒い情熱に身をやつしている風にも見える。私の年齢になれば。
しかし、今まで私はまったく無知だったのだ。
酒が飲めず、同性とは付き合うこともその機会もなかった。
あったとしても歓楽街での遊興には何の興味もなかったのだった。

今、その気で探せばまだ何かがありそうな予感。

    ちょっと待て  まだまだこの世は 面白い、  のかも

この年齢にして見つけた新しい生きるネタ。
始めは珍しく、それなりに面白かった。
まだまだこの世には金で買えるものがある。
・・・しかし、それは虚しいことには違いない。
金で買った時間内だけの勝手な妄想と金で買った時間内だけの高揚で。
生活の根拠になっているそれ以外の時間では矛盾が噴出・・
それでもいい。
破滅してもいい、こんなふやけた生活なんて豚にくれてやれ、とか。

3月14日に奈良税務署に確定申告に行き、帰りに自動車と衝突
空中に跳ね飛ばされ、一瞬にして事態を悟った私は何かが腑に落ちた。

そうか、そういうことだったのか、と。

もういいや、こんなところで・・・
明らかに私はこれで自分の人生が終結すると思った。
それでなくちゃ。
そういう風に向こうから強制的に決着つけてくれりゃぁ話が早い。
自分の人生が終わると実感したふたつ目の経験。

しかし、別に生命の危機にまでは至らず、意外と長期に渡った自宅安静の全治期間が続いた。
結局、強制的に私の夜遊び期が中断されてしまう結果になった。
そしてやはり自分で実際に命の危機を見てくると、今更ながら家族の支えが大きな生活の基礎になっていることが実感できた。
いわば、夜遊びを楽しめるのも家族との生活基盤がしっかりした上でのことだったのだ。

それからしばらく「夜遊び」体験を検証・反省の日々。
実を言うと夜の世界での遊興自体はやはり私には合ってなかった。
宗右衛門町のキャバクラも桜川のアポロビルも、新地のバーレスクも、やたらと騒ぐだけで。私がひきつけられる淫靡な何ものもない。
多分、非合法会員制秘密クラブとかのような裏側にまで潜入できればひょっとして・・・
しかしそのような裏道を究めるにはもう私の時間は残っていない。
せめてこの方はと見込んだある種の才能を時間で雇い・・
しかし、それも結局自分の老いを自覚する哀しみを味あわせてくれただけ。


いつものように夜プールに泳ぎに行き、帰り道の佐保川の土手の農耕車道でバイクを停め、遠くの道路や中央市場の夜間照明を眺めている。
夜の川原は静かだが、時折水鳥がかすかに鳴く。

夏の夜はいつも一人でこのようにして遠くの花火を眺めていたような気がする。
誰もいない川原の草地だが、それでも遠くに町の明かり。
花火の下には町の群集。
しかし私にはいつも花火は遠い世界のことだった。

ただ一人で遠くから眺めているだけ。
子供の頃から一人で川原の雑草にまみれてオナニーをしていた。
実際にはオナニーはそんな年齢じゃなかったろうが(^^;
しかしやはりずっと私は夏の川原の草原でいつも。

その時だけ私は自分が独りでポツりと生きているこの世から抜け出ている。
母が私の手をつなぎ。
もうとっくに亡くなった母が夜空の向こう側から私の手を引いて。

なんかいつも孤独だったよな。
夏の川原でじっと遠くの町の明かりを見ていると
今もまったく同じように私は独りで。



朝、遅めに起きたので、今日はいつものエチュードは省略。
昨日、ちらりと弾いたらいきなり掴まれてしまったショパンのソナタ第三の一楽章を練習する。
ゆっくりと。
しかし一度は暗譜するまで弾きこんだハズなので。

今まで死ぬときにはショパンのバラード第4を弾いていたいと思っていた。
でも、今ならこれかな。
情熱と回想。
果てしなく続く妄想。

夏の朝、セミの声をききながらショパンを弾く。
そのような光景も実はあったのだ。

夏の朝、セミの声をききながらショパンを弾いていると、確実にもう夏になったんだな、と。

もう何回目の夏なんだろうか。
この生の妄想の中で。

グランビア大阪で 夏の遠い花火の夜..