墓場にまで持って 弟と難波、ヨメと..
[団塊の段階的生活]

墓場にまで持っていくブログ(2)

2017/8/18(金)22:34
8月17日(木)
裏ブログ「墓場にまで持っていくブログ」の記事の内容に新しいカテゴリーが期せずして追加。
今までは家族のプライバシーは写真だけだったので「野外夜巷徘徊記」のパスワードシステム内で知人・身内には公開できた。

珍しく最近私の実弟と難波で飲んで「野外夜巷徘徊記」に上げるつもりで記事を書いた。
しかし書いた内容がウチの「父方家系の出生の秘密」的な面妖なモンに抵触してしまった。
まあ、この類も本来は闇に葬ってしまうべき記録だろう。
しかし、私の個人の精神にはある種の影響があり、そのことは日記として記載しておく必要がある。
ちゅうわけで「裏ブログ」にまた別のカテゴリーができちゃったのだ(^^;


できるなら「表」で公開できるような穏やかな市民生活を営んでいきたい。
しかし本当の個人の生活の半分は他人には決して明かせない裏側の事情に拠っているのではないか?
市民社会は自分が一個の立派な市民であり、他者も同じく立派な市民であるという相互協定を基盤にしているのだろう。
「お互いにちゃんとやりましょや」とかいう。

しかし現在日本の市民社会の在り方は、私には偽善強要社会に見えてしまう。
私が裏ブログに記録していることは、犯罪や他者を傷つけるような内容ではない。
完全な個人の感覚や考えから出立している私独自の社会活動といってもいい。
しかしまったくその方とは関係のない他人の行動であっても、その方が標準とする市民社会のルールから外れていれば即糾弾し、排除しようとしてくるのが現在日本社会に特徴的な皮相さである。
これをいつかのNHK解説番組では「非寛容社会」と称していた。

私個人でも、他人にはどうでもいいようなバイクの記事を上げて炎上させられた記憶がある。
「標準日本人的」じゃなければソイツを殺せ、ということが「標準日本人」としてのアイデンティティーを失わないための盲目的自衛法のようだ。

自分はどうしてこんなにも他者とは違っているのか、ということが今までの私の最大の悩みであり課題だった。
感覚や考えが他者と違っているのは当たり前だとは思うのだが。
それでは決して許してくれないのが現在日本の市民社会である。

しかし、歴史的に見れば日本人・日本なんて雑多な人種・生業・生活形態を持った多くの人の集まりじゃないか?
私の家系の出自は農民基本の標準日本人じゃないようだ、とはウチの弟の調査だった。
あ、なるほど(^^)v
じゃぁ、私の感覚が標準日本人でなくても、それは私個人の問題ではないんだな。

外国で暮らしてみると、私は妙に自由になれたわけだ。
少なくとも私は「外国人」なので日本人を無理して演ずる必要はなかった。
そしてそこでは Stranger (違う・奇妙な人)であるのは当たり前だったのだ。

そうか。
私は生まれながらにしてStrangerだったというわけだった。
そうおもうと、どこかで長年の疑問が氷解する思いがある。

私は一個のStrangerである。
もとより何処にも属していなかった。
単純に「私は私である」。それだけ。
日本人でなくともいいし、何国人でなくともいい。

私はどこまで行っても私にすぎない。
ここに到達するまで一体どのくらいの無駄な時間を過ごしてきたのだろうか?

もう多分私は周囲の人々への違和に苛立つことはないだろう。
違っていて当然なんだ。
私は元よりどこにも属していない Stranger だったんだから。

と、本日もせっせと裏ブログを書く。
最近私がFacebookに投稿しなくなったワケは分かるだろ?
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