壊れていく夏(2 | 都心高層住宅見学.. |
[団塊の段階的生活] |
「裏」で生きる |
2017/9/10(日)3:51 |
9月3日(日)
(1)主よ、夏は偉大でした・・・ 今はすべてが壊れ ただ堕ちていく・・・ というわけでもないが、久しぶりにリルケの「秋」という詩を思い出した。 言語はドイツ語なので 秋=fall のメタファは成立しないが、頂点からすべてが落下していく感覚の記憶がある。 9月になってさすがに涼しい風が吹きわたり私の胸の夏の狂騒が静まった。 それよりPCが逝ってしまい、システムの復元(Apacheの設定)がうまくいかず活動停止状態になっていることもある。 長い間気にかかっていたレイクフォレストの株主優待券が出てきた。 すぐRに「見つけたから一緒に行こう!」と電話した。 今は何食わぬ顔をして表で生きているそれぞれの絆を確実にしておきたい。 これからも本体は裏で生きるしかないのだが、墓場にまでそれを持って行く覚悟はもう出来ている。 ・・・とか思わせる程の・・秋の風。 夏は終わったようなのだ。 (2) 久しぶりに難波で遊び、ビールをひっかけ、コーヒーで酔いを誤魔化しまだ深夜にはなってないが高速で帰宅。 もう夜の街ですることもあまりない。 そして・・・ バイクで疾けぬける大阪東地区、高井田・長田・荒本etcの懐かしくも飽き飽きする町並みをまた違う目が見ている。 過ぎ去る影のような都会の夜の裏側の影のようなものが私の<本当>だったのだ。 虚構の町の裏側の影のような日常が本当の私が生きていた場所だったのか。 東大阪の労働の日々は私の個人史のまったく影の部分だったのだが。 この汗まみれの街・大阪全体が夜の影が生じさせる虚構の都市だったように。 本当の私は「今ここに」はいない。 雑多な人々に囲まれ、社会様とかと称し、え?私もですか?と一構成員と見なされ・・ しかしそれはすべてウソだった。 私のDNAにこびりついている無宿人流れ者の、あるいは馬喰人足賎民の無限の怨恨が、虚構の歴史の中の虚構の人生を強いられ、表の市民生活の安逸をただその虚構に支えられた更なる虚構、最初から自分には関係のない遠い二重の虚構の世界と感知し。 実は別にそんなに運命論者ではなかったのだが、そのように自分を本質的に人で有らざる者・外人・Strangerと同定したとき、深く隠されていた真実が見えてきたようなひそかな得心があった。 (3) 実はそうだったのだ。 市民社会とどうしても自分を同化させることができないのは私がトニオ・クレーゲル故だと? そうじゃない。 永山則夫や中上健二の方だったのだ。 中上健二。 この作家は忌避してきた。 あまりにも私の求める文学世界とはかけ離れていた。 しかし中上と私の精神の原型は実は同じところだったのかもしれない。 裏の光景を表に引きずり出し、それを表現のエネルギーとした中上と。 可能な限り裏の光景を封じ込め、表の世界の最良の高みへ上昇しようと試みた私と。 ただそのベクトルの向きが正反対だっただけで。 中上についての評論で四方犬彦が「貴種と転生」と言うタイトルを出しているのが気になるところだ。 (4) 今年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」はマイナーな人物達を軽いタッチで描いていた。 しかし高橋一生演じる小野但馬守政次の存在が物語に意外な奥行きを与え、絶妙なドラマに仕立てられていた。 この「嫌われ者政次の一生」こそ期せずして「裏で生きる」典型的な例と見えた。 表では嫌われ者として忌み嫌われ、遂には悪人として処刑される。 しかしそれが政次の本懐であり、その為にこの人物は一生を費やして生きてきたのだった。 え?「一生を生きる」はヘンかな(^^; この人物は非業の生を終えてしまうのだが、裏の本当の人生では本懐を遂げ、その死は本望だった、と描かれている。 この表と裏の人生の両義性の矛盾こそが生きているというダイナミズムを生む。 Credo cuia absurdum. 生きていることの不条理。 本質的に矛盾した生きていることという非条理。 (5) すべての「真実」は隠され、隠蔽され、禁止され、忌避され、それでも密かに語られる「裏」にある。 言葉を発している私は確かに表に存在するのだが、私の「裏」はしきりに「そうではない・・」という。 言葉は表で。 真実は裏で。 言葉では永遠に真実は捕えられない。 しかし、少なくとも「裏」でそこに真実があると感知させる指標くらいにはなるだろう。 「表」の人間には「裏」がない。 「裏」のない人間なんて実は居ないのだ。 だから「表」の人間は人間でない。 と、存在していない「裏」の人間はいう。 それは「裏」がない人間達の皮相性だった。 私が違和を感じていたのは、この人達には「裏」がないということだった。 二重構造・二律背反・絶対的矛盾的自己同一の苦しみがない。 いや、誰でも裏に真実をかかえたまま、どうしょうもなく表の人間を演じているしかないのかもしれない。 しかし、そうであればどうして他者の真実はすべて表に見えていることとして単純に糾弾しようとするのか? あるいは単純にそのように断定するのは表の人格が破綻しないための自己防衛で、実は裏では密かに・・・? (6) 意識し、意思し、表に存在することの強烈な矛盾を体現し、絶対的に表出不能な可能性を暴力的にまでつき上げ、そうして初めて表にわずかに、かろうじて感知させ得る、私という虚構の存在の無限の悲哀。 そのように自分が定義でき、私は初めて自分と言う「自分=自分」という、「私は私である」という、同一律のからくりが見えた。 「私」とは言葉で定義できる、他者が定義できる、他者から定義された自分である。 「私」と「自分」の間には表と裏の絶対に交わらない断絶がある。 私は私である。 というとき、表の私は言葉で定義し尽くされているが、裏の私にはまったく言及されていない。 そのようなものだと、私の自我があるとして、そのように自分と世界との乖離を測り、私はやっとこの世界が大きな虚構にすぎないことを体感した。 私はこの虚構の世界に「私」として存在しているが、「自分」のプロパティの比重は決してこの世界に存在しない、この世界からみれば虚構の、虚構から見れば虚構の、存在するはずのない世界に私ではない自分が存在する。 存在するはずの無い世界に存在する。 私は自分が生きているのは裏の世界だということを深く悟った。 (7) 大阪東の夜を疾走しながら やっと もう死ねると 結局どこで死んだとして 私には同じことだった。 私は元来この世界には、最初から生まれてはいけないことになっていたのだった。 そう確信できればこれまでの人間であろうとしたわだかまりが、まあ無理だったよなぁ。 たまたまその日の次の火曜のTV「ファミリーヒストリー」を見た。 オノ・ヨーコは横浜正金銀行ニューヨーク支店長の小野さんと安田財閥のお嬢さんが生み出した個人だった。 明治以来の日本史の表側を確として生きてきた個人達が築き上げてきた現在日本があり、その文脈でニューヨークでパフォーマンスアートを展開したオノ・ヨーコがある。 個人はファミリーヒストリーの蓄積から生まれてくるのだ。 私はクラシック音楽に憧れ、ヨーロッパにも渡ったが、結局大阪下町から一歩も出ることはなかったのか? ヨーロッパは大阪下町のただの鏡像だったのだ。 私のDNAとは何の関係も元よりない。 元より大阪下町も、最初から虚構の町だった。 父は機会があれば海辺の故郷に帰って行った。 子供の頃に遊んだ光景か? 私が子供の頃に遊んだ廃棄鉄管が積み上げられ、雑草の生い茂った戦後焼け跡の町はもうどこにもない。 ・・・・釜ヶ崎さえもうどこにも存在していないのだ・・・ 結局、もうどこにも存在しない そして決して存在しなかった歴史の裏の暗闇が私のDNAに刷り込まれていた本来の私の故郷だったのだ。 - 2017/9/3(日) 午前 10:31 -
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