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[静かな生活]

マスク文化の黎明(序)

2021/2/14(日)0:43

昨今のマスク常用社会がもたらすものを考えた時、この思いもよらぬトリガーがまた新しい人類文化の一時代を開くのではないかという予感がある。

昨年11月よりご近所のボウリング教室に私は参加した。
平日午後故かほぼ老人クラブというような様相。
昔ゲートボール、今ボーリングだな(^^;
三ヶ月も経過するとそれなりにお互い顔見知りになるのだが、先週、例会でまったく覚えのない方に親しげに挨拶され、やむなく空返事をしてごまかした。
しかし、すこし後でその方を見るといつものウチの教室の見慣れたメンバーだった。

先程、その方は水を飲んでいてマスクを外したままで私にご挨拶いただいたのだった。
昨年11月よりの教室の10名ばかりのメンバーは互いに「顔見知り」ではあったが、実はお互い素顔をまったく知らなかったのだ。
その実、マスクが顔の一部に固定したままでも、我々はお互いを十分同定できていた。
この人物認識状態では、マスクなしのお顔を拝見してしまうと、まったく記憶にない見知らぬ他人としか見えなかったのだった。
現代社会はまたもうひとつ別のフェーズに移行したのだとここで私は悟った。

これから外の社会で出会う他人は基本的にはマスク姿が通常の顔になっていくだろう。
例えこの疫病騒ぎがおさまったとして、このマスク文化が即消滅するとは私には思えない状況がある。
私自身にしても、ずさんな衛生観念、バイクのフルフェィスヘルメット常用習慣、過大肺活量その他で当初マスク着用を拒否していたのだが、良識ある社会人としての体面上いつしかマスク常用を余儀なくされてしまった。
しかし、マスクを常用するとこの新しいスタイルにはそれなりのメリットがあることにも気がついたのだ。
口元を隠すことのファッション的快感とでもいうか。
もう口元の法令線を気にすることはないし、だらしなく出てしまうにやけ笑いを隠し、お世辞の追従笑いや思わず浮かべてしまう下卑た嘲笑も隠してくれる。
マスクは年齢を隠し、本心も隠してくれるのだ。
マスクの常用が一般化すれば、こいつは思わぬ恩恵を私にも与えてくれるようだ。
多分疫病予防の意味がなくともマスクを着用する安心感を手放せない方は増えるだろう。

人類の歴史をざっと反芻してみても、当初は防寒上の実用から衣服の着用が始まったのだが、いつしか性器乳房を隠すことが衣服の社会的な役割になり、実用的にはなくともいい水着のようなモノまで公共の場には着用が必須条件になった。
生理的に生々しい個人の身体部位を隠すことが社会における衣類の大きな役割だとすると、今、口元を隠すことが今後の人類社会の基本的文化になっていくのは必然だ。
口は食事をし、発話する重要な器官だが、この疫病騒ぎでどうやら公的な他人との食事や大声での会話が新たに社会的タブーになるようだ。
もとより近年のオーラルセックスの一般化で、口も相当アヤしい器官と見なされるフシも大いにあったのだった。

私個人の勝手な印象を言わせていただければ、我々老人のボウリング教室の面々だけではなく、おしなべて大多数の隣人諸氏のお顔はマスクをしていただいた方が目には確かに快い(^^;
若い女性は口元を隠し目だけになれば皆驚くほど魅力的に見えてしまう(^^♪

そのような目でもういちどマスクなしの顔を思い返してみれば、今は口という器官の卑猥性をいやでも感じてしまったりする。
何も覆われていない「生の口」のその卑猥さよ・・・

性器を隠す衣服着用が一般的になり、人類の(女性の)唇は性器の代用ディスプレイとして分厚く赤くなった、という説もあるくらいだ。
性器を隠し、乳房を隠し、そして今、口を隠すという文明のフェーズが始まろうとしているのだ。

個人の実際の接触を忌避し、なるべくリモートで用件を済ませようという現在の新しい習慣が根着くにつれ、個人の生々しさを体現する器官としての口を露出することへの忌避が新しい社会規範になる。
ネクタイが男性のフォーマルな姿となっていったと同じく、マスクが社会で公式な姿となる時代がやってきた。

我々は文明的規模での新時代に突入しようとしているのだ。
それは個人性が最大限に秘匿され、社会的差別が不可能な時代であり、コミュニケーションが音声から視覚へとシフトする時代である。

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