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[静かな生活] | ||
大阪東・眠れない朝の夢 | ||
2021/3/25(木)13:39 | ||
週一くらいはガンバらねば。 次第にその気になる事から遠のいているが、しかし今日は意識して。 ここ10年くらい会員だったX-Cityを昨年止め、もっぱら無料のXvideosを見ながらガンバるのだが・・・ しかし、必死こいてガンバってみても30分もすれば眠気の方がしゃしゃり出てきてしまうのだ。 早朝、そのままの態勢で窮屈にふと目覚めてしまう。 確認するとまだソッチまで行ってない・・ 時間はまだ早いので・・・試技再開・・・そしてまた。
・・・ここで完全に覚醒、カフカ風出口のない悪夢から救われた思いで安堵する。 --- この夢の恣意的な現実のデフォルメが私の来し方を自分自身がどう思っているのかを素直に出してしまっている。 私は大阪東の労働者の町に閉じ込められ、出口の見えない穴の中でただ窒息していたのだった。 記憶を逆流すれば私の職業人としての勤め先は城東区永田から始り、東大阪・大東・門真と大阪都市部の東の周辺の工業地帯をただ点々としていただけだった。 しかし、その前にホテル「サル・デ・バーン」のことを先ず書いておく。 --- (1)”サル・ド・バン” または退会するNOVAへのオマージュ ここ2,3年会員だったNOVAを退会することにした。 主としてフランス語会話のクラスに参加するつもりで入会したのだが、私が参加できる教室は地元にはなく、大阪梅田校だけが唯一可能ということが後から判明。 かくて2年ほど毎週大阪駅前第4ビルのNOVA梅田校に通うことになった。 NOVA梅田校Room5からの窓外
![]() たまたま最初に同じ教室で参加していたのはほぼ同年代の男性、仏人講師も男性だったので高年男性同士の気楽な会話で始った。 この男性、第四ビルの教室の大きな明るい窓から真正面に見えるお初天神商店街の奇妙なドームを指し、「アレ、知ってます?」・・・ 先輩から私へのさっそくの地域情報か。 ![]() 右は御堂筋に面したフェニックスホール。 正面に御堂筋と直行して上(東)に入る筋がお初天神商店街。 すぐに新御堂筋高架に視線を止められる。 ![]() その新御堂筋のすぐ前、お隣の細長ビルに邪魔されて少々日陰者になっているが、なにかアヤしいドームがある。 「あれは”サルドバン”。ラブホですよ。」 フランス語教室の正面にいつも見えるラブホの名前が"Sall de bain" (風呂場)か、なるほど(^^♪ (今、確認すると日本語では「サル・デ・バーン」となっていた) この先輩は先に男性仏人講師に教えられ、それを私に伝授したという次第。 新御堂筋を向こう側に渡れば太融寺一帯の大阪キタの一大ラブホ街だが、人通りの多い商店街の中にちょこり玄関があるラブホは希少。 地の利を生かした使い方ができるかも(^^; 以来、私のフランス語教室の正面にはいつもラブホ”サル・ド・バン”が怪しく鎮座することになる。 ![]() やはり夜に入ればそのアヤしさは一段と輝きを増すようだ(^^; ![]() NOVA梅田校、ここは一等地で全面明るい窓が開き、実にいい眺めである。 ![]() NOVAでのこの二年は自分の実力にいろいろ不甲斐ない思いをしたのだが、週に一度大阪梅田に出、隣の第3ビルのRHYでピアノを弾き、会社帰りのヨメと落ち合って飲み喰いするいい機会でもあった。 ”サル・ド・バン”も前を見学に行ったが、商店街の裏側にも裏口があって、そちらは曲がり辻で人通りがなかった。ご利用希望者は退出は裏口からが何かと都合がいいと思う。 また、夢ではこのホテルの位置が西天満付近になってしまっていたのだが、そこは私が20台最初に電子オルガン講師契約をした河合楽器梅田センターがあったところだった。 (現在は大阪駅前第3ビル) --- (2)おおさか東線の永遠に続く泥夢 その西天満の非常勤講師を辞め、いよいよ生活上の都合で正式に就職したのが城東区永田の染料販売会社、地下鉄深江橋駅が最寄りだった。 私の最初のサラリーマン生活、継続8年。 以降、4年の滞欧生活を挟み、地下鉄高井田→地下鉄大日→地下鉄永田→京阪古川橋と何れも電器メーカーの下請けあるいは関連子会社に奉職、かろうじて25年の基礎年金受給最低資格を満たすと即退職。 20から60の労働年齢にその半分くらいしか働いてなかった計算だが、それでもしかし私には結構辛かった。 何よりも、その労働生活で得たのが給料以外に何も無かったこと、私の価値観ではまったく意味のない時間であったことが、泥の中を這いまわっているような重くるしい夢として戻ってきてしまうのだ。 終業後同僚とどこかに飲食しに行ったということが一度もないという異例な25年間。 私は誰とも打ち解けず、ただ社会に参画する苦痛の代償としてだけ給料を貰っていた。 他方、参加していた複数の合唱団のメンバーとは練習終了後の会食は通例だったのだが。 最近、JRおおさか東線を初めて利用する機会があった。 新大阪から私の居住する奈良大和路線地域への連絡駅久宝寺まで直線的に行けるようなので試してみたのだった。 夜で連絡の悪さもあったのか、同じような暗く沈んだ町並みを鈍行列車で永遠に走り続けているような印象だった。 そしてその時、何だか私はいつもこんな都会の裏側の、下請け派遣労働者が大半の、倉庫兼事務所でただいやいや働いていたのだ、と思い出してしまった。 おおさか東線って、「城東貨物線」のことじゃないか? どこまでも続く迷路のような、という印象は一度大阪市バスを使い深江橋から梅田方向に行ったときの印象もある。 バスはまったく不可解なくらいの急な大回りをし、都心部から人口過疎の放出駅を無理に経由し、更に今福あたりで逆戻りし・・・ 今でも地図でみると現在のおおおさか東線も放出を通過するのに不自然なカーブをたどっている。 どこと言って特徴のない、どこも同じののっぺり退屈な町筋を、方向も定かでなく、いつ終点にたどりつくのか見通しもなく、大阪東の重層する迷路に閉じ込められ、ただ焦りただ蠢いて。 永遠に抜け出せない薄暗い迷路という人生。 現在からの無自覚な一瞥では、私の過去の俸給生活期はそのように見えている。 --- 退職後、その苦痛の代償としてやっと手に入れる自由な時間を堺屋太一は嘗て「黄金の10年」と呼んだ。ちなみに、この人が「団塊の世代」の命名者である。 今、私は団塊の世代としてその黄金の10年も既に終えてしまったことになる。 確かに私は「退職できて良かった!」と幾度もブログでつぶやいた。 しかし、自分が本当に自由になれたのか、というとやはりそうではなかった。 強いられた労働からは免れたのだが、相変わらず周囲の社会との折り合いは悪いまま、更に私の内側の自尊心の崩壊や精神的不如意からの周期的「鬱の気配」と常に隣り合っていたのだった。 結局、経済企画庁長官でもあった堺屋太一の考える黄金の時代とは義務労働からの自由、つまりは経済的自立が黄金の意味、つまるところはカネの話である。 もちろん、もう一生飢え死にすることはないだけの年金(140万+配偶者加金39万)を保障され、「もう会社に行かなくてもいい」という大いなる安堵を得、ようやく60になれた私は素直ににうれしかった。 しかし私の生き辛さの原因は実はそこではなかったのだ。 ・・・ この春から人生をサボる、それは私が「私である」ことをサボるということに他ならない。 私は周囲の社会が私に私であれと命じていると私が私に自己規定している私から少しずつサボりだし、そしていつか私がもうこりゃ私やないやな、というトコまで行ってしまうのだ。 それがアガリ、ということだ。 |
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奈良公園の春
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