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[サラエボから東ベルリンへ]

 サラエボ(2)


'01 1月31日(水)1
サラエボ民宿朝。

すっかり雪景色になっている。
朝食を取ろうと階下に下り、ちょっとした土間にテーブルのある朝食場に行くが誰も居ない。
調理場を覗くと支度している婦人がいる。パンを焼いているようだ。
”朝食は?”と尋ねてもどうも言葉がうまく通じない様子。
どうも朝食は8時から、と言っているようだ。
では、時間まで中心街とは反対側の山手を朝食前散歩。

雪景色。

ヨーロッパには違いないが、西欧という雰囲気ではない。

社会主義圏によくある集合住宅群。
”ユーゴスラビア”は先ずソビエト連邦の影響が強い社会主義国だったが、チトーの指導の元で独立性の高い”ユーゴ型社会主義”を維持してきた。かなり西欧よりの社会主義体制だったようだ。


鉄道の駅。

国連のバスが停車中。
この日は町で国連平和維持軍の兵士をよく見かけた。

もういいだろう。
ホテルに戻る。
調理場で働いていたおバさんが我々を見て、心得た風に食事を運んできてくれる。
焼きたてパンと生サラミとでもいうような皿。
素朴な、手で握ったようなボール型のパンで、まだ暖かい。
少々怪しげな民宿風でもあったので、まともな朝食が摂れるのかと少々不安だったのだが。
このパンは美味かった。焼き立てだから当然か。
いままで喰ったパンの中で一番ウマかった、とその後よくヨメと言い合った。
”生サラミ”も美味。後市場でも見かけた。この辺ではポピュラーなサラミのようだ。

食後「市内地図はないか?」とフロントでたずねる。
簡単な観光地図ならどこのホテルにでもあると思っていたら、どうも用意されていないようだ。
オーナーのおニィさんが奥から備品らしい市販品のサラエボ地図を出してきて貸してくれる。
”帰りに返してくれ”という身振り。
この地図は借りたままで、とうとう返していない。

今夜の夜行バスでザグレブに脱出することにし、先ず切符を買いに行く。

バスセンターのチケット売り場へ。
係のおバさんが心得た風に切符を発行してくれる。

チケットと2デリーナ硬貨を2枚渡される。
バスセンターへの入場ゲートで必要とのこと。
コイン投入の自動改札のイメージか。
ゲートの外から発着番線プラットフォーム(安全地帯)確認。


市内へ。

Holidy-innに入る。
わずかの客がロービーとダイニングルームに見える。
トイレを借りて痔の手当て(^^;

曇天。
「スナイパー通り」を市外方向へと歩き出す。

銃弾・砲撃跡が至る所に。


町の路面電車は普通に客を乗せている日常の光景だが、背後は紛争中のまま。

昨日タクシーから見た崩壊した新聞社まで行きたかったが、かなり遠そうである。
2キロくらい歩く間に内戦とはこのような光景が日常だったのかという気分で撮影。

町のスーパーが開いていた。

2・3食料を買うヨメ。適当にデリーナ紙幣をレジで並ぶヨメに渡す。
先に出口で待っているとレジ待ち列からヨメが離れて呼びに来る。
「何か言ってる」?
入ると、レジのおバさんが”金が足りない”というそぶり。
後ろに並んでいた教師風中年女性が英語で「too small」と教えてくれる。
ヨメに渡した紙幣をよく見ると確かに単位が違っていた。
正しい紙幣をレジに渡す。
笑顔になる。
”袋が必要?”と身振りでたずねてくる。

中心街に引き返そうとして市電の切符を買い、乗り込む。
車内でヨーロッパ標準のコンポスト(切符刻印印字)をしようと柱のソレらしき機械に切符を喰わせるが反応がない。
少々騒いだハズだが他の乗客は無言のままだった。
そのまま乗っていると、次のストップで乗り込んできた制服の検札員に捕まる。
次のストップで降ろされ、取り調べ。
あまり言葉が通じないが、やはり”切符に印字がない”ということだ。
罰金20マルクx2払わされる。ドイツマルクしか持っていなかった。
罰金をせしめて制服二人組は去っていく。

後ろから見ていたガキがくっついてき、しきりに”アイツらは罰金を自分の懐に入れる”とか言っているようだ。
車内の大人は我々が印字しようとして機械に切符を噛まそうとしていたのを知っていたはずだが、だれも擁護してくれなかった。
このガキ、お子サマだけは我々の味方になってくれた、という感じか。

そういう訳で、このおボっちゃんと記念撮影。
検札に降ろされた地点がよく見れば意外とピトレスク。

現在の地図ではAcademy of Fine Arts、美術アカデミーとなっているが元は東欧正教会だろう。

戦火の跡ばかり見ていたのでこの無垢な建築はことさら目を引く。
川沿いの敷地の奥にミナレット。
やはりボスニア=ヘルツェゴビナはイスラム圏である。

これは中世以前の古い教会のように見えるが同定出来ず。
いずれにせよ、この川(ミリャツカ)にかかる橋(ラテン橋)がサラエボ事件現場。

1914年オーストリー・ハンガリー2重帝国の大公がセルビア人に暗殺され、これが第一次世界大戦の端緒になった。
国家・民族・宗教が入り混じった東欧の小国は絶えず紛争を誘発する。

ピッザリアで昼食。
ちらと中をみると相変わらず男達がたむろしていたが、店主らしき肥満したおっさんが2flor・beauteful seats と呼び込むので2階へ。
暖かく、量も味も手ごろでなかなか快適だった。

このピッザリアで手持ちの通貨の写真を撮った。

外の写真を撮影。

山側の住宅地。

石段を昇ってみる。

同じような屋根が続き雪を冠って連なっている。

後方にミナレット。


中心街をもう一度散策。

かなり開けた街路があり、後背地の家屋の冠雪の背景もいい。

先ず少し先まで行って、こちらに歩いてくるところを撮影。

入り口は西欧風、中の奥の方はソファーなんかがどことなくトルコ風に置いてある喫茶店で時間をつぶす。


up:2025/3/3(月)2:11
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