フィンランド上陸ハーメ .. 世界遺産タリン旧市街....
[北欧旅行2006]

アラウンコ国立公園散策とエストニア行き

2016/2/9(火)3:9
7/19(水)
午前中、郊外のアラウンコ国立公園に行くことにし、リュックを背負い、駅前のバス停でアウランコ行きバスを待つ。

19.07.2006 09:47 2.60 E x2
バスに乗り込むと乗客はホテルの朝食レストランで見かけたカップルのみ。
どうやらお互い日本人と同定(^^;

アウランコホテル前で下車し、カップルと日本語で帰りの時間等の情報交換。

すると運転手が近寄ってきて時刻表のプリントアウトを手渡してくれた。

森への道がよくわからず、どうやらウチよりも情報豊富らしい件のカップルの後をついていく形に(^^;

いかにも北欧らしい池発見。
道標で道の確認。


なんとなく見え隠れに同行していた カップルに写真撮っていただく。

ようやく散策ターゲットの塔に到着。

内部の階段を経て頂上展望台へ。

塔の両側の湖と森の景観。


ただし、曇り勝ちで風が強く塔屋では寒くて長居ができない。

ところが塔から降りると、くっきりとした晴天になってしまった。

後からやってきたカップルと最後に挨拶。




帰りのバスの時間待ち。
アラウンコホテルの芝生に降り、湖の写真を撮る。


19.07.2006 12;00 2.6e x 2
12時過ぎホテルに帰着。

ハーメンリンナの町のごく普通の通りの一角にあるシベリウスの生家訪問。

シベリウスの音楽は高校時代から好きだったし、その清冽な、いかにも北欧的な管弦の響への憧れは今も残っている。
私にとってシベリウスの音楽は特別な祝祭的な思いいれがあり、それがそのままフィンランドへの親近感に直結している。

作曲家は1957年に死去したのだが、晩年の30年間は全く曲を発表しなかった。

最後の交響曲第7番や他の最晩年の作風からは次第に内向していく傾向が顕著で、「愛国的作曲家」と見なされていた当時の世間の期待からは随分離れたところにいたはずだ。

その辺りの事情を詳しく考察し、私はトニオクレーゲル並の芸術家小説、「交響曲第八番」と題するシベリウスの伝記小説を書く予定だった。
しかし、未だ資料不足で本格着手には至らず、2015年にその骨子をブログに発表しただけで、私のミューズは荒漠とした北欧の湖の果てに霧散していった。

「ところで、キミはどうする?」
「ワタシはいいよ。一人で入ったら?表で待ってるから。」
とかいう訳で、一応博物館になって入場有料のシベリウスの生家へは私だけ入場(^^;

ホテルチェックアウト。
room 99eur
レストラン 33.9eur
計: 132.90eur = \19965

ハーメンリンナからヘルシンキへ。



なかなかのどかな一等車内(^^;

ヘルシンキ駅構内のインフォーメーションでタリンクターミナルの行き方を教示してもらい、バスでターミナルへ。
190706 16:25 2.20 e x 2

波止場のタリンクチケットセンターに行き、6時半のタリン行きのチケット購入。
19/07/06 16:53 Talink 45 eur =\6760

窓口で「ファーストかそれとも?」とか問われ、誤解して「Economy class」と答え(^^; 出国ゲートに入ってから間違いにきずく。
Firstではなくfast ship or normal one ? という問いだった。
高速船で行く予定だったのだが、どうやら他に廉価版の鈍行船もあるようで、遅い方のチケットを買ってしまったようだ。
このままではタリン到着が10時になってしまう。
とりあえず高速船の乗船ゲートに行きで係員を待つ。
やがて高速船のチェックインがはじまったので、係員にチケットの変更を要望するが、取り付くシマもない様子で却下。
この旅行で一番無愛想な対応をされてしまった。

深夜到着の覚悟を決め、バルト海縦断3時間半のフェリーに乗り込む。

乗船時の混雑は出稼ぎ移民の列を思わせ前途多難を予感させた。

しかし、船に乗り込むと様子は一変、ゆっくり食事と買い物を楽しむレジャー船の雰囲気である。

バルト海中間ですれ違ったタリンクのヘルシンキ便↑

レストラン設備はバイキングラインよりも充実し、別に豪華な入り口の高級ロシア料理店等もあり、貧しい移民専用船と思っていた意識が全く変わってしまう。

帰りに乗った高速船の方がそのべらぼうな料金にかかわらず、事務的なただのフェリーの様相だった。
船内をそぞろ歩き見学して過ごす。

フィンランドからバルト海を縦断南下したのは初めてではない。

学生時代のヨーロッパ周遊貧乏旅行で同様に船で縦断し、ポーランドのゲダンスクの港に降りた。
ゲダンスク(ドイツ名:ダンチッヒ)はポーランド労組のワレサ(後大統領)が最初に造船所労働者を組織し、ストライキを指揮した場所である。

私がゲダンスクに降りた年の春までポーランドは戒厳令下にあった。
ゲダンスクの港の沖合には異様に真っ黒な船が数隻停泊していた。
甲板の船客が「Wor ship ! (戦艦)」と叫んでいた。
そのような時代だった。
もちろんその時代なら当然エストニアはソビエトロシア連邦に併合されていた。再独立は1991年。
現在のタリンク船内はまったく観光レジャー一色で、つい先日まで覇権主義の隣の大国に翻弄された世界現代史の緊迫感など、もちろんまったく感じられない。

船内最大のバイキングレストランに一時心が傾き、サラダバーを見に行くが結局却下。
一番簡易なカフェテリアでビールとサンドゥイッチ系で食事。

GALAXY CAFE 13.9 EUR =\2085
190706 21:19 M/S GALAXY SUPERMARKET 2.60 eur = \390

しかし、タリン上陸が深夜になるので宿の手配が心配。

船内の船会社のカウンターでタリン市内のホテルの手配を頼んでみる。
タリンク系のホテルしか扱っていないが、どこも満室とのこと。
夏のバカンスシーズンたけなわかい。
しかたがない地図をもらい、足でホテルを探すことにする。




10時、タリンの郊外が見えてくる。
まだ明るい。


タリン(エストニア)上陸

タリンクDターミナルから旧市街まで歩く。
途中、同船だった黒人とエストニア人の家族が話しかけてくる。
旧市街への道を尋ねる。

夕暮れのタリン旧市街に裏側の城門から入城。

最初に見つかったホテルに入り料金をきく。
204ユーロ! 即引き返す(^^;

地図を見ながらホテルを訪ねるが満室ばかり。

三叉路でヨメと荷物を残し、携帯電話で相互通話できるようキャリアの設定をして確認、一人でホテル探しに歩く。

すっかり夜になった。
広大な旧市街で、広場の飲食客を尻目にホテルを訪ねまわるがすべて満室。
携帯電話で旧市街域外のSOKOSホテルに通話もするがやはり満員とのこと。

あきらめた。
最初の五つ星204ユーロに投宿と決定。

ヨメと落ち合って、城門傍の五つ星ホテル投宿。

荷物を置いてもう一度町へ。

夜11時のタリン旧市街。


かなり疲れて部屋に戻る。

高速船のチケット購入間違い、ホテルの予約不備、高級ホテルへの予定外出費、疲労等でヨメがいらいらと突っかかってくる気配。
空調リモコンの操作「ちゃんと説明聞いたでしょう?」とかイヤミを言われる。

確かに行き当たりばったりの無計画旅行でリスクが一杯なのは確かである。
私にとってはそのリスクをクリアしていくのが外国旅行ということなのだが、ヨメはどうも勝手にお膳立て万全のツアー客のつもりでいる。
なら、自分でもホテルの予約手配くらいしてくれればいいじゃないか!
 ↑10年後の現在からの声(^^;

でも、一晩眠ればすっかり忘れて気分回復してくれてるのがヨメの性格の良さ、と一応書いておく。
もちろん、私はかなり執念深い性格で、苦労した挙句に文句たらたら言われる理不尽な無念は10年経ってもしっかりと記憶に蓄積されている(^^;

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