お昼喰いに出たら夕方ま .. [私家版野外徘徊記] 韓国料理妻家房とMUJIカ...

 津守・鶴見橋から「萩小の森」まで


'22 2月15日(火)
本日予定なし。
では、午後3時45分、近隣散歩にでも。

先ず、住宅西側の下町桜川の銭湯確認。
なるほど、小商店街の中に「ヘルシー温泉タテバ」あり。
地名としては立葉か? 

近くの浪速区民会館の住所表示を見ると「稲荷西」となっていた。
昔、市電の駅(停留所?安全地帯?」に「赤手拭稲荷前」というのがあった。
粟津扶起子の家がその辺りに。
しかし、嘗ての市電道はなくなり、新なにわ筋に?

ウチの近辺もそうだが、大阪西地区の道路は広くなったが交通量はそんなにない。
嘗ての密集下町は都心から外れたありふれた街路筋。
しかし、どこか昔彷徨った地区の記憶が地名にこびりついている。
台南や台北の町をうろついていた感覚を思い出す。
・・・見知らぬ町だが、奇妙に懐かしい・・・

そのまま新なにわ筋をそのまま辿っていくと東にカーブしていて、その辺りが芦原町。
JR芦原橋駅の向かいに「太鼓正」が今も。

和太鼓の製造販売店で、5・60年前にも市電通りでよく目立っていた。

周辺はチンケな下町小商店だったが、ここだけはかなり大規模な専門店で異彩を放っていたのだった。
何故、こんなところに?・・・と思ってはいたのだが。

そして暫く行くと太鼓屋又兵衛居宅跡という公園風の整備された史跡が。

又兵衛さんは太鼓作りの他、皮革商でもあったという。
そうか・・・カギは太鼓の皮だったのか・・・・
芦原町とは。
ここまでくると更に一歩踏み込んでしまう。

閑散とした広い道路に中層商業ビルや住宅棟が普通に並んでいるのだが、その奥からディープな大阪の原風景が亡霊のように私を手招きする。

交差点を渡れば西成区中開。
相変わらず少々さびれた、しかしただの町筋だが、このまま歩けば津守か・・。

途中、新しい中学校にぶつかる。
鶴見橋中学校・・・そうか、では鶴見橋商店街まで行くか。

あれだ。鶴見橋商店街のアーケード。

つぶれているが、ここは確かに昔の喫茶店。
角の大正風洋館は確か・・・森本サン。 昔は医院だったハズ。

鶴見橋商店街の西端に出る。

私の実家は国道26号線、今宮工科高校のグラウンド横だったのだが、毎月鶴見橋商店街の西、津守端にあったふたば書店から雑誌「少年」と小学館の学習雑誌を自転車で配達してもらっていた。
時に、当時評判だった山川惣治の「少年ケニア」も母が買ってくれた。
当時は月刊少年雑誌が子供の娯楽の主流だった。

鶴見橋7番街から西は津守商店街に。
ここでしきりに私のアジア体験の原点がこの地だったと得心する。
鶴見橋7番街は中国でも台湾でも私は見た。
この薄暗がりの寂れた商店街が私が出てきたところであり、そしていつか帰って行くところだったのだ、と。
この強烈な帰結感に茫洋となる。
この前死に場所探しに台湾まで行ったような気がしたのだったが、本当はオマエは・・・

商店街が道路で分断され、道路を渡るとちらりと私の今の居所が見えている↑・・・

そしてこれが南海汐見橋線「津守駅」・・・
このあたりが子供の私の世界の果てだった・・・

再び鶴見橋商店街に戻り、国道筋まで東上する。


喫茶シャトー。
昔の商店街はやたらと喫茶店が多かった。

喫茶ピータパンと筋向いは「力餅」。
アレもどこの商店街にも一軒はあった。

途中見知らぬ道路(府道41号)に分断され、そこから東側の5番街からはまだまだ現役の商店街風の賑わいが。

しかし、ひところの皮革カバン専門街の面影は探さねばわからない。
嘗て鶴見橋商店街は靴・ハンドバッグの専門店街だったのだ。

市場はなくなり大型スーパーに。

大衆演劇鈴成座はアッチ。

スーパー越前屋。 ここは昔鶴見橋市場だった。

ま、ここがDEEPな大阪の下町なのは間違いない。

国道26号線の信号を渡れば萩之茶屋商店街のハズだったが、花園北商店街というような名に。アーケードは南海本線「萩之茶屋駅」までなし。

ちらりと今宮無線中継塔(「NTTコミュニケーションズ今宮ビル」とか)に誘われ、私の旧実家の向かい筋まで行ってみる。

今中(「今宮小中一貫校」)前「内川文具店」・・・もう文具はやってないようだが看板だけは・・・

子供の頃、文房具はここで買っていた。
今もあるとは・・・しかも、ここの看板娘は私の同級生・・だったような記憶が。

今中の横の道に南海本線のガード。
愛隣地区(「釜ヶ崎」)上を関空特急ラピートが通過・・・。
ガードを抜けると・・・私の最初の母校があったハズ。

たしかに此処だった。
そこは「萩小の森」と書かれた中途半端な空き地だった。
萩之茶屋小学校跡・・・
私はなんと、萩之茶屋小学校・今宮中学校・今宮高等学校と新今宮周辺地だけで自己形成してしまったのだった。

南海ガードの東側が嘗てのドヤ街。
今は簡易ビジネスホテル街、とでも言っておこうか。

かすかに昔のガード下の雑然としたチンケな小商店街の名残が。

南海本線「萩之茶屋駅」。
駅改札口向かいに喫茶「はまや」健在。
浜口クンは私の中学校のブラスバンドの後輩だった。
ちらり、と店内を覗いたら、誰か若い衆に睨まれた(^^;

駅舎から東に「萩之茶屋商店街」が続き、今池商店街で左に折れるとジャンジャン横丁、通天閣まで通じているのだ。
ここが本来のDEEPな大阪なのだが、ついこの前の日曜にヨメとソッチに行ったので本日はここまでにしておく。
私にとっては鶴見橋・長橋が自分の原点だったと改めて実感した。
50年前、私はこの「呪われた地区」からやっと脱出、紆余曲折の末、ヨーロッパにまで彷徨っていたのだった・・・

しかし、今再びこの地に帰ってきてしまったのだ。
そして何故か強烈な帰結感がある。
それがオマエの決着か?
それでよかったのだ、と?

オマエはここで、もう死んでもいいんだぜ、と。

up:2022/2/18(金)23:9
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