弁天町大阪ベイタワー .. [私家版野外徘徊記] 大起水産と南海パーラ...

 確定申告常時深刻


'22 3月12日(土)
確定申告の季節・・・ヨメとの抗争の記憶。
最近の私のスタンスは一人で出来る限りやって欲しい・・・
ヨメがパソコンに向かったので、テレビを消し、私は室内にいて「静かにピアノを弾く」。

突然ヨメが「この項目は!?」と大声を出して問う・・
ただ私はピアノに集中していたので大声にビクリしたのだ・・「そんな声ださんでも!」。
ヨメのパソコンの確定申告作成コーナーの項目の一つが疑問で私に後ろから・・しぶしぶパソコンの横に行って確認、しかし私に覚えはない。
ヨメは私が答えるべきものという感覚で詰問風になる。
「そんなもの私は知らん。一人で考える!」・・・とかいう会話だったと思う。
 
ここでヨメがいつもの直線的な反応・・・
「もういい。もう確定申告しない。税金なんか払えばいい。」と。
ここから長い一日が開始し、なんとか調整を繰り返し夜を食べ・・・
そして最後に私が泣く。

論理的にはもう私に逃げ場はなく、この家が最後に死ぬ場所なのに、ヨメの感情の加減でその場所さえ定かでない。
ヨメは「ではこの7000万を・・・」あ、そこまでは明言しなかった。
明言したのは「それではルネッサを売って、その3000万で」・・・チャラに?

ヨメの直進性はすぐ関係の最後まで行こうとする・・・
離婚という明確な指標ではないのだが、・・とにかくもう「これで最後」と。
その間にある無数の段階の折中法を考え、工夫し、試すことは一切なく。

私は今までの20年間の蓄積をそんな一瞬の感情のとがり方だけで、一切ゼロクリアしようとする人間としての脈絡(継続・人格・矜持)がどうしても理解できない。
そんなに簡単に20年来の関係をゼロクリアできてしまうのか?
その間のお互いの膨大な「思い出」実際の体験や生活の決断を一瞬の激情でクリアできる、そういう心理に至ることがどうしても納得できず、いつまでもその周辺の疑問を問いかけずにはいられなかった。
理不尽である。
どう考えても同じ人間として・・いわば「成人した大人として」・・・一切の経緯を瞬間的にクリアし、「もういい、すべてヤメ!」と、全てを一瞬で無にしてしまうような。

最後になんとか「離婚はしない」・・
「来年、20年(実は違っていたが)なので、今年中は保留し、20年目に再契約するか終了するか決める」・・そのようなことで収めた・・のだったか。

一緒に食事し、ヨメはあいかわらずスマホでB::FIRSTのユーチューブをいじり・・・
一体何のためにヨメはここに一緒にいるのか?
少なくとも・・・私には「それなら来るな!」と言えない事情がある。
・・・ここはヨメの家なのだ。
つい先月も私はもうこの家には住めない、住まないと決意し、郡山に帰ろうとした・・・
しかし現実にはもう私には帰る家はないのだ。

だから「察してくれよ、そのくらい・・・」

食後、想念はいつまでも回り、遂にあの幼児化発作が始まる。・・・
ただ淋しくて悲しい。
涙を流して泣けば、「母」がやってきて理屈もなく、理由もなく、ただ母がやってきてすべてを受け入れてあやしてくれる・・・
今、それはヨメが?私の泣き声を察知し・・私を抱き上げ・・・理由もなく、何も聞かずただ慰めてくれる・・・そういう存在でいて欲しかった・・・
 
しかし、今回ヨメはこういった。
後何年で終わるから最後のわがままを許せ・・・という口実は通用しない。
ワタシももうトシだから。

そうか、やはり私をそのまま受け入れることはもう「しんどい」ということになっていたのか・・・
今、また私は結局「最後は自分一人で」という覚悟をやはり「死ぬまで持ち続けないと」と自覚した。

ヨメはそこまで私の母ではない。
ヨメにとっては父母の絆の大きさからすれば私は・・・まったくの一過性の、取るに足りない・・・というような比較を口にする。
私はそのような軽い存在であった(うすうすは判っているのだが・・・)ことが信じられない。
少なくとも生涯添い遂げる覚悟で結婚したのだから・・・
というのは私だけの感覚で、ヨメにそれを期待するのは酷か。
しかし結婚前のいきさつを考えるとヨメにもそれだけの覚悟はあった・・
と思えるにも拘わらず・・・
 
ヨメがあの時のヨメではもうないのが悲しい。
生きているのは悲しい。
しかしそれが生きている間はのがれられない、生きている本質かもしれない。
 
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健康診断の質問表に記載するため過去のデータを探したら、コレが見つかった。
今、敢えてこの時の記録をそのまま掲載しておく。
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一瞬にして最悪の感情に突き進むR 公開しない 修正削除移動 記事をクリップするクリップ追加
2019/3/17(日) 午後 8:47 日誌 家計
3月17日

毎年の抗争のタネだった確定申告も終了、久しぶりに何のわだかまりもない週末。
今年から木曜NOVA後のルクア食事というイベントも加わり家庭的には穏やかな日々。

日曜昼、RがPCで私のFBの非公開アカウントの画像を表示 「何、この変な」
どのようにしてRのアカウントに私の非公開アカウントの画像が出るのか、「なんでや!」
というようなことだったと思う。
一瞬にしてRの感情は最悪に突き進み、すべての悪しき想念が支配。
こうなってはもうどうしょうもない。
私の反応が「隠さんといかんアカウントをさぐりあてた」というような風に解釈したのかRはもう悪意の反応しかしない。
その実は単にFBが勝手に送付する友達ではありませんか画像だったが、最悪の罵り合いのみが残ってしまう。
何とか修復しようとする私の説明はすべて臭いものを隠そうとする弁明ととり悪意を増幅させるのみ。

・・・その経過はどうでもいい。
心しなければならないのは一瞬にして最悪まで突き進むRの直線性。
それまでの平穏な日々の喜びや日々のイベントの楽しみもまったく一瞬にして空しくしてしまう。
一体Rには過去の記憶はないのか。
最悪に陥ったにしても過去の日々への記憶が残っていさえすれば、すぐ修復する気になるだろう。
最悪の感情を続けては結婚生活は破滅にしか続かない。
それを考えれば自分の最悪の感情を何とかそらせ、修復への努力をすべきだろう。

まだ、私はRが最悪の選択をするとは思っていない。
しかし彼女の行動様式は記憶や論理や計算や・・・いうところの良識はないようだ。
瞬間の感覚的反発だけで。
たとえ、その感覚的反発が誤解にもとづくもので、さらにそれが誤解であるということが明確になったとして、彼女の真実は感覚的反発・嫌悪の衝動しか残らない。

私は論理で説明する愚をいつも犯してしまう。
理を説明すればいつかは納得してくれると、未だに安直に反応してしまう。
論理ではないのだ。

だまって過ぎ去るのを待つしかない。
この発作はいつ起きるのか予測はまったくできない。
旅行中にも必ずその瞬間はやってくる。
最悪の感情をぶつけあうしかない時間が帰るすべもない旅行中に勃発する。
Rと二人きりになる1週間がおそろしい。
その恐れがある限りRと旅行することは苦痛でしかない。



春鬱 公開しない 修正削除移動 記事をクリップするクリップ追加
2019/5/13(月) 午後 3:47 日誌 家計
春の危機

弟との確執   思いもかけぬ糾弾
ヨメとの確執  いつまでも続く距離
 5・12日 昨日、旅行のことで険悪な空気になる。
 ヨメがテレビばかり見るので 悲しくなった。
 ヨメにすがってさみしいというと嗚咽が止まらなくなった。
70歳のしゃくり泣き。
もうどうしても寂しい。
どこにもいる場所がない。
母はどんなに泣いても救いに来てくれない。

結局「春鬱」とは感情が非常に不安定になることだった。
・・・・・
発端はヨメの・・「が体にいい」いつもの話題だった。
ひょっと「フランス滞在中のブログ」にその温度差を少し書いたと伝える。
リフレッシュしたいのに聞かされるいつもの「くだらん」話題・・・

「もういい。旅行にいかない!」
「・・・いや、そういう意味ではなく、私の旅行は3週間で後は移動して・・という折衷にしたハズだが?」

ヨメのスイッチが切れ、「この人にはもうなにもせんでもいい・・・」という状態になったらしい。
お昼を私が作ったが、一緒にたべず、自分の持参の食料をもってこたつに行きテレビをみながら・・・
それでもタンデムで一緒に土曜コナミに行った。
佐保川の土手の紫の雑草の写真を撮った。
帰りにサイゼリアで食った。

日曜朝にも感情の不整合は続き、朝食後とにかく私はどこかにバイクで出ようと思う。
赤いサックに本とタブレットとインカム2個を入れ用意。
ヨメはしぶしぶ用意。
「行きたくないなら別に・・」というと、「家でテレビ見ているほうがいい」、と外出用服を脱ぐ。
ぎくしゃくしたまま。

こたつのヨメの見るばかばかしいテレビの音をききながら、哀しいのでテーブルに向かって涙の気配。
時々ヨメとすれ違う。
トイレに立つヨメを捕まえて抱きしめると涙の気配がそのまま嗚咽になる。
「さびしい」と口に出したら嗚咽がしゃくりあげ出る。
テーブルに突っ伏してしゃくり泣く。

70歳にして幼児のようにしゃくり泣き、状態がひきつったまま力がぬけない。
この時、私はとうとう本当に孤独で、ふたたび母に私を産んだことの責任を問い詰める。
「なぜ私を生んだ?」

母の存在を思い出す。
母の存在を感覚が再びよみがえらせる。
このようにして、身もふたもなく・あられもなく・自尊心も自立心もなにもなく・
まったく無防備な幼児にされて、泣きじゃくるだけの70歳になって。
全く無力な幼児になって産んでしまった母を呼ぶ。
母はもうどこにも居ず、泣き声だけがいつまでも。

テーブルの下の赤いサックから落ちた二個のインターカムをヨメが見る。
幼児になった私は「ヨメとバイクでいきたかったぁ・・・」と泣いていると。
ヨメが「しょうがないから、行く?」

それからもヨメにすがって泣いたりする。
ヨメにいてほしい。
そこにヨメは居るのだが、私の傍らでいつもいてくれたヨメの気配はない。
ヨメは居てくれるのだが、それはヨメではない。
ヨメが居ない、と私は泣いている。

昼過ぎて「お昼どうするん?」というので食べに出るという。
・・・それから奈良市と天理を・・・
なんとかヨメと過ごした感覚がもどってくる。

ヨメとの断層
「居るとうるさいが、いないと寂しい。」
ヨメの居る状態を100パーセント私は許容できない。
ヨメの居ない状態も100パーセント許容できない。
ヨメはまたヨメの条件を持っている。
はてしない折衷と折衝の日々。
しかしヨメは居るか居ないかどちらかのディジタルオプションしかない。
しかし70歳になって私にどんなオプションが可能なのか。

この夏は私は旅行に行かないと”教授”にメールしなければ。
この夏、なんとかしてヨメに旅行に行ってもらいたい。
ヨメが「もう私は10年もヨーロッパに行っていないのに・・・」という感覚があるのなら、ソチラを優先する。
 
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このときのヨメは「しょうがないから、行く?」となだめてくれた。
今はたしかに、もうそれもない、ワタシもトシだし、と言明する。

実はこの年の秋、ヨメがビジネスクラスのツアーを申し込もうとしたが、もう募集しているものは終了していて、私がもういちど「私と旅行する?」と提案したのだ。
そして東欧旅行が実現、しかし懸念した衝突はなく、お互いに年齢がその懸念をクリアしたのだと思った。
これでヨメと最後まで行けるのだ、と確信できた。

そしてこの家を購入するような経緯も私と「最後まで行く」のが前提で進めてきた話である。

・・・・しかし今、また自分の最後の時間をとにかく波乱なく、、いや、できるだけ波乱なく過ごせるようにまた何かの手はうたないと。

ネックになっているのが私のヨメへの配慮だった「不動産の名義はヨメに」という措置か。
結果としてヨメはウチの唯一の「富裕層」になり、私は老後2000万に及ばぬ「貧民」でもないが、とにかく経済的に不安な層に落下してしまった。
もちろん、交渉すればヨメは最低「ルネッサ 3,4千万」を私の資産にするくらいはするだろう。
しかし、そういう金の話ではない。
私は自由になりたい。
ヨメに気を遣わずに気ままに生きて死にたい。(ヨメは気ままに死なせてくれない・・)
ヨメに干渉されない場所が欲しい。

ヨーロッパで暮らすこと、しかしいまの情勢と年齢がそれを困難にしてしまっている。
・・・このロレッタで死んでもいいと思っているのだ。
だから、名義はキミで、私が死んだらキミが売り飛ばせばいい。
しかし私が死ぬまでココで、私の家として暮らさせてほしいのだ。
私の家として・・キミはあくまで訪問者で、 私がこの家の 主催者 と。
その 感情的安定感を得たいのだ。
キミが また発作を起こし、 爆発すれば 私が 行くアテもないのに 出ていく ことは、考えるのもつらい。

もう、ほっといてほしい。
キミは私を生んだ母ではないというのなら 
  せめて  最後は 一人で気ままに死なせてほしい。
と。
up:2022/3/15(火)14:10
弁天町大阪ベイタワー .. 大起水産と南海パーラ...