真夏のパリ彷徨と妄想

2009/8/9

地下鉄に乗ってトロカルディ。
地下鉄をあがれば、シャイヨー宮の左翼の裏側で、まだ何も見えない。
歩いて行くと左翼が終わり、中央の舞台に出る。
ここで忽然とばかりに、
絵葉書のマネをして
エッフェル塔が全容を現す。
このドラマチックな登場は
ウケる。
今でもまだ同じ演出で
やってました。


「エッフェル塔」では絵葉書というイメージしかないが、シャイヨー宮(Palais de Chaillot)という
コトバは、日本語・フランス語ともに、いかにもパリらしい響きだ。

昨年冬のパリ訪問では「Les uns et les autres(愛と哀しみのボレロ)」の映画で、
モーリス・ベジャール演出の「ボレロ」が終幕で演じられたのは「凱旋門の上」だと書いた。
しかし何だかシャイヨー宮の舞台だったような気がしてきた(^^;

まあ、どちらでもいいのだ。
こういう思い違いは世界史的には何らの影響も残さない。
しかし、私の書いたものには思い違い・記憶違いがかなり多い。

青山光子の息子、リヒアルト・クーデンホーフ・カレルギーをロベルト・シューマンと
取り違えたり、モーリス・ベジャールが亡命ロシア人だったり、よく細かい突っ込みが
はいる(^^)

しかし、それでいいのだ。

人間は自分の見たいものだけを見、自分の住みたい世界で生きている。
唯一無二の真実の世界だけがあるなら、この世はとても正気では生きてられない。
百の人々は百の世界で生き、この世は多様で百の真実があるのだ。

特に、老検(認定老人検定)
取得者は「アンバリッド」と
呼ばれ、自分で創った世界
史の中で自分の人生を勝手
に美化して生きてていいと
いうルールがある。


   (Invalides de Paris)


ウチの義父は80を超え、老検特一級も持っていて、この分野の最高峰を極めている。
このクラスになると、自分の人生の95パーセントが他人からみれば恣意的な創作で
出来ている。
残りのわずか5パーセントで共有(現実)世界と繋がってらっしゃるのだ。
もともとありもしない自分の財産が捜してもないので、家族の誰かが盗ったというストーリ
の世界で生きている。
私も一応初級老検は持ってるので、「すんません、全部使い込んでしまいましたぁ。」と
間違って謝ってしまう。

それで、いいのだ。

橋脚の間から緑地の向こうに
アンバリッド(廃兵院)。
なんとも見事なシンメトリー。
不定形なこの世の対極に
ある安定した唯一無二の
理想世界。
富と力を持つものは、自分
でこの世の真実を創ろうと
するのである。
もう一度、国家の死滅
(栄枯盛衰)の思いを反芻する。


「舞台」の下に下りれば、
世界の観光客が噴水の
横の芝生に寝そべって涼
を取っている。
私もしばし、寝転んでいると、
やがて陽が傾き、エッフェル
塔に照明が点り、夜向きの
化粧を始める。

もうそんな時間かい?


セーヌ川のほとりをシャンゼリゼ方角へと戻る。
エッフェル塔の下を、
にぎやかな照明を川面に
ゆらして遊覧船が行きかう。


凱旋門の方にショートカットしようとして、道路の上側、Palais de TOKYO(東京宮)に上がる。

夏のパリでの一番苦い追憶が立ち上る。
いや、多分、もしかしたらその記憶自身がここに来させているのかも。

フランスで遅ればせながらの青春を共に過ごした人が、パリの雑踏に消えていった。
航空便での最後の連絡のアドレスがこの地区だった。

機会を捉えてパリに行き、この住所を尋ねた。
住居の戸をたたくと、2階から大家と思しき夫人が顔を出した。
「Melle・・・、います?」
「もう引っ越しました。」
「どちらに?」
「さあ、聞いてません。」
この時のパリは重苦しく、どんよりと曇っていた。
それが夏のパリを訪れた最後の機会だったか。

すっかり夜になった。
ふと見るとエッフェル塔がにぎやかにイルミネーション
を散らし、腰を振って観光客に媚を売っている。

「さあさあ、お客さん、あなたの見たいパリってコレでしょ?」


何かもうレストランに入って食事する気が失せた。
帰りに東駅界隈でサンドイッチ・グレック(ケバブ)でも買って帰ろう。 

2009/8/9(日) 午後 7:21