喪失への予感と新しく... [D01] またもストラスブールへ
〔フライブルグ通信〕

存在と時間、自同律の考究 -フライブルグ通信第0号-

2011/08/04

スポーツクラブに行き、いつものルーチンコースに入り、普段通り淡々とこなしていたのだが、ふと思ってみた。
今日が最終日か。
8月はフライブルグに行くので、7月で一応の退会とする手続きをしていたのだった。
ひと月まえに退会手続きをしたのだが、それからも普段通り定刻に顔を出し、いつもどおりのメニューを相変わらずこなしていた。そして今日になる。中身はいつもどおりだったのだが、意味がちがっていた。
 
最後の日はやってくる。 いつか、そしてかならず。 
割烹着のままバイクに乗っているヨメ→
 
私の後ろに乗って近所のスーパーに行く予定だったのだが、ガレージに行くと急にソノ気になり、免許証も持たず、
そのままバイクに乗り、えいやとばかり走り出してしまう。おまわりさんに見つかりませんように。
 
ご近所を一周し、山間の「ウチの畑」のあぜ道で涼を楽しんだのはいいが、突然の集中豪雨に合い、ドンと濡れそぼってしまった。
 
翌日、私の赤バイクを京都のディラーに持っていき、車検手続きをした。
赤バイクを新車購入して丸三年たったのだ。
そのまま八月いっぱいはディラーのガレージで順番待ち。秋口に私が帰国してから引き取りに行く。
今年の夏のツーリングはこれで最後ということになる。
 
すべてには最後がある。
自発的に設定した日時も、自然に定められた枠組みも。
生は死を含んでいる。
実存は必然的に無を前提とする。
 
ドイツ語の勉強を再開。
英・仏の学習を経て再びドイツ語に再帰してみると、以前には見えていなかったものも見えてくる。
ドイツ語はラテン文法の感覚では理解できない用法に満ちているのだ。
当然と言えば当然だが、他のラテン系言語のように必ずしも名詞・動詞・形容詞・副詞等の品詞はきっちり分化していない。動詞の枠構造やまるで膠着語のような語順の重み。
 
もっとも基本的な、「AはBである」を表現するbe動詞自体がもうすでにラテン文法では理解できない用法に満ちている。
 
Das Konzert ist heute Abend. (コンサートは今夜)
「わたし は コーヒー」 (I am coffee ) みたいな文章である。 Konzert = Abned ?
 
Er ist buergerlicher Herkunft. (彼は市民の出である) 彼=Herkunft ?
(buergerlicher Herkunft は2格) との注あり。
 
そうか、やはりドイツ語には格意識があり、英・仏のBE とは RAISON D’ETRE が違う。
TO BE ODER NICHT SEIN、C’EST CA LA QUESTION それが問題だ。
 
be動詞はAはBに他ならず、という自同律を示し、その存在を定義する論理言語のもっとも根底的な作用そのものである。
しかしこのドイツ語では、音韻論的にはまったく異質なものが存在の地平で結びつけられている。
存在とは分裂する自同律をコトバで統合することなのか?
その属性を寄せ集め、SEINで統語すればそれが実在(DASEIN)となるのだろうか?

存在(SEIN)とは何なのか? 

本質的な原存在があり、そのこの世界への投影が現象として存在するのか?
それとも唯一無二の絶対者が「あれかし!」(SEIN!)と命じ、存在が開始するのか?
 
哲学の永遠の課題だった「存在とは何か」という問いに私なら、今このように答えようと思う。
 
いつか終わることができる現象が存在である hemiq 2011
 
従ってプラトンのイデアや唯名論神学のいう神は、定義上「終わる」ことができず、したがって存在ではない。
どうだ?
我ながら何という見事な定義か。むはは。
 
生起する個人の死と非在、震災が引き起こす非日常の光景、圧倒的な自然の力とパンドラの原子力。
鬱の気配と再生への試み。フライブルグ大学とハイデガー。ドイツ語統語論と存在の探求。
 
本屋で、とにかくハイデガー「存在と時間」中公クラシッス版を購入。
しばらくフライブルグ大学でハイデガーを読むことにする。 なんちゃって。
 
では、行ってくるぞ。

 

喪失への予感と新しく... blog upload: 2011/8/4(木) 午前 4:11[D01] またもストラスブールへ >