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〔フライブルグ通信〕

[番外3] イエナへ、旧東独との遭遇

2011/09/16

9月6日 夕
プリントアウトしてもらった鈍行のみの接続票(Reiseverbindung)を確認しながら列車でイエナまでの旅をする。
ちなみに行程は: BAYREUTH Hbf → LICHTENFELS → SAALFELD(SAALE) → JENA PARADIES だからリヒテンフェルスでザールフェルト行きに乗り換えるという指示。
リヒテンフェルスが終着らしく、車掌が何やら連絡接続等のアナウンスの後「Gute Reise !」と別れの挨拶をしている。
乗客が全員降り支度をしている。 
しかし、接続票のザールフェルト行きは同じホームになっているが、他の列車の影はない。
ということは、この列車が今から列車番号を変え、そのままザールフェルト行きになるのだ、と考える。
しかし、先ほどの車掌のドイツ語がよく聞き取れていない。
 
一等車の出入り口付近に後ろ向きに立っていた車掌に「この列車はザールフェルトに行くのか?」と訊ねる。
振り向くと車掌さんではなく、ただの背広着た紳士だった。
「うっ・・行くと思う。」とのご返答。
 
そのうち列車が停止し、全員降りていったが乗り込んでくる客もあるので、この同じ車両がザールフェルト行きになるのだ、とほぼ確信する。
プリントアウト上ではこの駅で乗り換えることになっているのだが、実は同じ列車に乗り換えるのである。
つまり、乗り換えようとして降りてはイカンのだ。 実は接続票の 注釈 b)にはそう書いてあったのだが。
 
こういうのも外国の列車で旅行するときの落とし穴でしょうね
さて、景色ががらりと変ってくる。
南ドイツの牧場の淡い緑の拡がりはなく、土色の畑が増えていく。
家並みもどこか地味で簡素である。
そして裸のままの工場も町の直ぐ隣に建設されている。
 
旧東独に入ったのである。
 
この、「東欧」という響きに何事かを思い出し、思いもかけない高揚感が沸き起こる。
30年前、私は「鉄のカーテン」の向こう側を一人で鉄道旅行したことがある。
それ以前にも団体でバス旅行もしたのだが、当時は団体の旅行では事前の許可が必要で、宿泊ホテルも指定されていた。
一人で東欧を旅したときの高揚感をどう表現したらいいのか。
いわば、禁断の地への潜入というようなサスペンスもあった。
そして、ドレスデンやイエナという地名の持つ古いドイツの都が、アメリカナイズ・資本主義化しないまま水晶のように結晶して残されていた・・・。
今ではもちろん、その当時の緊迫した、あるいは時代に取りこぼされた地域ではない。
しかし、良く見ればいたるところに「旧東独」がのこっている。
 
畑の色、簡素で質朴な家、線路脇の雑草、くずれかけたレンガ造りの工場。
それから、フランスでも南ドイツでも今はすっかり見かけなくなった駅や建物への落書き。
 
・・・と、やっと明るい緑の南ドイツから脱出し、私の今回の旅行の核心に近づいてきた予感に意識を集中していたとき、なんのきっかけか前の席から後ろ向きに肘掛に座りなおした男から声をかけられる。
 
どこから? 日本。 ああ、日本に行ったことがある。 はぁ、どこに?・・・ 
これだよ。
私が日本人だと見こした上で声をかけてきたと見える。
で、私に言わせれば、これもいかにも「旧東独」らしいのだ。
つまり、田舎風に外国人、特に日本人に興味があり、話しかけたくて仕方がなかったのだ。
しかし、特にこの人はナイーブである(←子供っぽい(^^;)
自分で熱心に喋っている。
私のドイツ語があまりはかばかしくないので、英語に切り替わる。
 
食べている菓子を私にも手渡す。
日本文化論や自分のかつての日本旅行の体験談に夢中である。
 
乗り換え駅のザールフェルト到着。
線路脇の窓の小さいレンガ造りの建物が東独している。
はっきりって、妙に懐かしい。
30年前の光景でもあるが、何故か自分の子供の頃の景色でもあるような。
 
あのしゃべり男をやり過ごすため、わざとゆっくり写真を取り時間をずらせて乗り継ぎ列車に乗り込む。
 
イエナ行き列車は二階だてで、誰もいない2階部分に昇って席を占める。
 
列車が走り出し、殆ど誰も居ない二階の車窓から「旧東独」をもっと感じようとする。
 
ど、またあのお方が後ろから騒々しくやってきて、私の隣の一画に座を占める。
列車の最後部から順に私を捜して来たんだろうか? 出現はかなり遅かった(苦笑)
 
あきらめた。
男と英語でイエナまで付き合うことにする。
48歳、ライプチヒ近郊の生まれ。
とするとベルリンの壁崩壊時は20台の若者だったのか。
生まれたときからずっと壁の中、そして。 
この人の人生は見事に前半・後半の二つに分かれている。
 
職を得て世界を旅行、日本にも行った。新潟に友人がいて4週間の日本旅行をした。
そのとき、あれやこれや。
日本の・・ギャングスター・・
ヤクザ? そうそうヤクザがいて・・
 
でも、最近考えてみればこういう人は少なくなった。
30年前は旅行中によく声をかけられて喋ったものだ。
 
ポーランドでアウシュビッツからワルシャワに帰る列車の中で、熱心にコルベ神父(当時列聖された)のことを私に喋っていた教皇バッジ(当時ヨハネ・パウル何世だっけ、ポーランド出身)を付けた男性。 
この男もいったん別れてから、列車内を私を探してもう一度喋りにきた。
 
プラハのビアホールで一緒に飲みませんか?と声をかけてきた穏やかな老紳士。
退職教師でフランス語ができた。旅行から帰って後、絵葉書を送ってきてくれた。
 
・・と、これは旧東欧ではないが、アンドラで(アンゴラではない)喋ったアメリカ人のおっさん。
「軍隊を退役し今は世界を旅行してる。いい人生を送っているよ。」
・・実はこの時、年金もらって海外旅行暮らしか、アメリカ人はいいなぁ・・と思ったのだ。
まさか、自分がそのおっさんの年齢に今なっているとは・・・
 
↑これは余計な思い出だが、昔は東欧で日本人が珍しく、評判もよく、旅行者と見れば声をかけられたものだ。
あっと、ブダペストでグラウシュを安食堂でおごってくれた男もいた。
しかし、どう見ても私より貧しい身なりをしていた。
 
ということで、実はこのおしゃべりな男にもどこか昔の旧東欧の雰囲気を感じ、妙に懐かしかったのだ。
おかげで全く車窓からの写真を撮る事ができなかったのだが。 
イエナ パラディースに付き、男と握手して列車を降りる。
 
駅の構内の案内で私の本日からの宿のもよりの市電の駅への行き方を教えてもらう。
 
もっとも、すでにインターネットでの予約時に克明な案内があり、その確認という意味しかないのだが。
 
市電でわずか二駅だったが、急にうらさびしい郊外風になり、周囲に店もなく、天候も悪いので、夜の市内観光は無理かなと思う。
 
第一、このホテルは夕食付きなのである。
わざわざ夜に町に出て行く主たる理由がないわけだ。
このホテルも「チュービンゲン ソシアルアカデミー」という、どこかの学校法人のような経営母体であるらしい。
まあ、YMCAホテルとでもいう感じか。
 
レセプションの女の子は明るくはきはきとしていて気持ちが良かった。
冗談の2,3言のやりとり。
但し、英語。
 
実用的で装飾のない広めの室内。
三日暮らすのに悪くは無い。
 
で、これが部屋代に付いている夕食。
写真ではよくわからんが、食べ放題バイキングレストランで、まあ、一応の肉類・サラダバーがある。
ビールは別料金。
 
久しぶりにチキンを食った。
一泊2食付で50ユーロは安い。
それが理由で、エアフルトやワイマールを周るのにイエナを拠点としたのである。
 
 
 


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