〔フライブルグ通信〕
[番外9] ブランデンブルグ門での過去と現在の帰結
2011/09/22
9月9日 夕
今、ブランデンブルグ門を見ながらウンターデンリンデンの屋台のテラスで書いている。
と書き出すと、3年前にも「凱旋門を見ながらシャンゼリゼのカフェで書いている」と、同様にブログに書いたことを思い出す。(「ストラスブール通信」参照)
パリの凱旋門 2008→
← これがブランデンブルグ門。
あちゃ、おんなじ帽子だ(^^;
その時、私は第二の海外旅行適齢期に入ったと書いたのだが、先ずは順調にトシを重ねたことを喜ぶべきだろう。
前回は冬のクセに異例に暖かかったのだが、ベルリンは今も少々雨がパラついてちょいと寒い。
滞在型留学体験付き旅行の帰結として、首都の凱旋門の下で最終日の記述をすることになったのはちょいとした偶然だが、数えてみると、今回の旅行では思っても見なかった偶然のめぐり合わせがかなりある。
- フライブルグでハイデガー研究者大島氏に出会い、2,3度個人的に親しくご教授を受ける機会があったのも、偶然、大学が大島氏の講演会を企画開催したからだった。そこには今年が日独友好150周年という偶然もあった。
結局「存在と時間」をフライブルグでは読めなかったのだが、何と大島氏よりハイデガーの自筆署名入りの筆跡を真近に見せていただけたりしたのである。
- イエナ・フィルの定期を聞きに行くと偶然、余ったチケットを誰かに譲ろうとしていたご婦人と出会ったこと。
これも当日がイエナフィルハーモニーの秋のシーズン定演初日で、たまたま私がその時間に会場に吸い寄せられていたのだ。
- フライブルグ郊外のシュルヒゼー(湖)に行くと、私の心が一時自己制御を解除しかけた唯一の同胞女性と偶然(・・以下省略)
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- 私の旅行コース: フライブルグ→エアフルト→ベルリンをローマ法王が9月下旬に訪独し逆順で回ること。
フライブルグでよく見かけた法王歓迎ポスター→
私はエアフルト以外にも訪問しているが、あくまでエアフルトが旅行初期値だった。
ローマ法王が私にあやかろうとしたとはちょいと考えにくいので、これも偶然という他はない。
どうやらこの分では、もう一回くらい偶然があるのかも?? (←この伏線は実は後出しジャンケン(^^;)
で、今回の私のベルリンでの回想は二重構造になる。
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10年前に今のヨメと始めての海外旅行をしたときウンターデンリンデンを散歩した。
あのときはまだブッランデンブルグ門は工事中で、代わりに大きな写真がかけられていた。
それからヨメをベルリンオストのホテルに帰し、たまたまベルリン映画祭の審査員に来ていた「先代のヨメ」をベルリンミッテのホテルに訪問しにいった。
それが彼女と会った最後になった。
過去には相変わらずというか、ま、いろいろあったわけだ。
ただ、あのときのウンターデンリンデンは晴れていて壮麗で流石の貫禄があった。
ヨメとキャアキャア言いながら写真を撮ったものだ。
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ところがベルリンは今も至るところ工事中。
ウンターデンリンデンも掘り返しの中を歩いているようなもので、雨天とも相まって、あまりこちらの気勢はあがらない。
もう一つ古層の記憶では、ウンターデンリンデンは東ベルリンだった。
チェコから今のベルリンオスト駅に列車で到着し、キョロキョロと列車を降り、ふと気がついて背中のリュックを確認するとそこに無かった。
しまった、車内に忘れて来た!
そのとき乗って来た列車は「オリエント特急」というあだ名だったが、すでに逆方向に動き出した後だった。
そして多分そのままチェコ・ブルガリアを通りこしてトルコまで私のリュックは運ばれていったのだ。
カメラや最新の計算機とかを失った。
しかし最大の損失は西ベルリンの友人のアドレス等をひかえていた手帳だった。
そのとき、現在では一番価値があるのはモノより情報である、と認識したものだ。
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そのときはすでに2回目だったのだが、ウンターデンリンデンを今度は一人で歩いた。
すでに前年、団体バス旅行で東ベルリンの目抜き通りのホテルでベルリナーブァイゼンを飲み、アレクサンダープラッツのテレビ塔に登ったりした。
しかし、一人で歩くと全く別の東ベルリンが見えた。
←ペルガモン博物館
あのときペルガモン博物館から出ると既に夕暮れ時分になっていた。
壮麗な建物群に囲まれた通りには人影がまったく無かった。
壮麗な表通り(ウンターデンリンデン)と極端に暗く寂しい裏通りのペルガモン。
実際にそこで、暮らしている人など1人もいなかった。
まったく生活の匂いのしない町だったのだ。
東ベルリンの壮麗さは西側へのショーウィンドウにすぎなかったのだ。
それが、当時の東ベルリンの印象である。
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今回、先ほどペルガモンに寄って来た。
しかし六時で閉まるのでショップで土産を買っただけだ。
ペルガモンも工事中。何か邪魔な円形の建物を中庭に増設するらしい。
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← フンボルト像
フンボルト大学
ドイツ史博物館の前で学生風が売っていた屋台でチーズパンを一個買い、フンボルト大構内のヘルムホルツさんと一緒に食べた。
あまり人影もない大学の建物をしばらく探検。
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前庭のヘルムホルツ像→
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←大学本部エントランスホール
さすがのドイツ最高峰である。なんと、エレベーターが設置されているわ、トイレの蛇口からはお湯が出るわ。
驚きの超一流校仕様。
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廊下の壁には歴代有名教授の肖像が架かっている。
ただ、物理・科学系の学者が多く、私にはあまりピンと来なかった。
この建物のウラの中庭にMENSAがあった。
表通りのごった返しからするとエアポケットに落ち込んだような静けさで、何か先に書いた旧東ベルリン裏通りの印象がダブってくる。
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流石の超一流大学仕様に感心し、もう一度エントランスホールから出ようとすると、なんと「フンボルトストア」があるではないか。
フンボルト大学グッズを販売してる。
思わずフン大のお帽子を買ってしまいました(笑)。
←フンボルトストア
フン大ロゴ入り、Tシャツ・帽子、文具等販売中。
学生向きだと生協売店(?)で売ればいいので、この店は明らかに外部観光客向けである。
してみると、私以外にもフンボルト大学に「観光に」入る人は多いのかも。
学内では公開展示ホールもあり、パネルのディスプレイが設置してあった。
↓フンボルトボックス
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フン大の近くにはフンボルトボックスなる物体があった。
観光用ショップと展望テラスが入っていた。
ウンターデンリンデンの直線が少し曲がってしまう角にあり、ここからはブランデンブルグ門が正面にみえそうだ。
夕方料金(Abendpreis)2ユーロと書いてあったので入ってみる。
「4ユーロ」「え?夕方料金2ユーロでは?」
「あれは18時からです。」「また、後で来ます(笑)」「(笑)」
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さて、ブランデンブルグ門を正面に見て、カリーブルストでビールを飲んでいたのだが、次第に夜の気配になってき、屋台の店のおばちゃんがイスを片づけ始めている。
寒いや、そろそろ私も店じまいとしよう。
最後にブランデンブルグ門をくぐると、私の旅はそこで終わる。
門の下のスーベニアショップで2001年にベルリンの壁のカケラ入りの絵葉書を買ったのだが、今回も未だどこかで同様の壁のカケラを売っているのを目撃した。
ほんまかいな?
まあ、どこのコンクリート破片だとしても冗談グッズとすれば面白いや。
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ブランデンブルグ門のところにちょいとひとだかり。
なにかイベントがあるらしい。
なんだか、日本のテレビ技術者のような数人が裏で作業し、表には演台が設置されている。
なになに、「平和と光りのメッセージ 日独友好150周年」だって?
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うむ、何というタイミングか、今回の私の渡欧の最後の夜を、ど派手にイルミネートしてくれるということらしいわい。
少し雨がちらついてきたが、こちらも折りたたみ傘を出すと丁度くらいか。
八時からとポスターにある。
時計を見ると7時48分。
なんと、時間をみはからったように私はブランデンブルグ門に現れたわけだ。
最初に女性司会者が地元のどなたかを紹介し、そのどなたかが駐独日本大使を紹介する。
大使のドイツ語はなかなかたいしたものだった。
それから関係者が紹介され、4,5名雛壇にたちカウントアウトのかけ声とともに一斉にスイッチを押す。
ベートーベンの第九第二楽章が荘重に鳴り響き、ブランデンブルグ門に幻灯が投影される。
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ヨーロッパのモニュメントでよくやっている光と音楽のイベントだが、日本がかんでいるところが当方としてはおもしろい。
ドイツ語FRIEDENと日本語平和が両側に配置され、そのような基本デザインで色を変えていく。
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第九が一段落し、突然というがごとく雅楽を基調とした日本が鳴り、映像が浮世絵風になっていく。
雅楽と浮世絵ではかなりのミスマッチだがしかしまあ、ヨーロッパではこの程度でしょう。
日本編は全体で10分くらいか。
比較的退屈させないような映像構成で、やはり日本のテレビ局も噛んでいると思わせる。
そしてまた第九の第4楽章が華やかに鳴り響き。
と、こう書いていてもしかたないが、ともかく霧雨の中を30分くらいか、つきあってしまった。
テレビが映している演壇のすぐ後ろに立っていたので、あるいはテレビニュースでブランデンブルグ門にたたずむ私の姿が放映されたかもしれない。
実際に集まってきた日本人の中で比較的まともな服装をしていた(上着をきていたといういみ)家族連れのお父さんがテレビの取材に応じていた。
というわけで、雨の中ではあるがヨーロッパ最後の夜をこのように音と光りで祝っていただけ、私が今回の最終目的地をブランデンブルグ門としたことにも、何らかの歴史的つじつまが合い、見事に帰結したことになる。
今年は日独友好150周年でもあるが、ベルリンの壁建設50周年でもある。
フライブルグ滞在中の8月にこのブランデンブルグ門で大規模な記念イベントがあり、私のクラスでも「ベルリンの壁の歴史」を調べてリポートせよという宿題が出されたわけだ。
今年の夏のドイツではベルリンの壁とローマ法王の訪独が話題の中心だったのである。
別にそこまでしていただく程のことでもなかったと思うのだが、私のブランデンブルグ門訪問に対するベルリン市当局と日本大使館の格別な配慮に、とりあえずここに謹んで謝意を表しておく次第である。
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(フライブルグ通信 番外編 完)
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