ドイツ語クラスで(1) ハイデガーと大島淑子 (1)...
〔フライブルグ通信〕

ドイツ語クラスで(2)

2012/01/30

我々の先生はベラさんというイタリア系の名前を持つ気さくなオバチャンだった。
イニシャルを見るとBella.Bとあり、ありゃ、ベラ・バルトークかいな?と思ったりした。
陽気でダイナミックな喋りで毎日の新聞や映画の話題を振り向けてくるのだが、ドイツ語の先生として文学や音楽の話題を振ることもある。
ここで自分でも感心するのだが、私も結構ドイツ文学・ドイツ音楽の引き出しが多く、この種の話題になるとうるさく合いの手を入れてしまい、終にはこの方面ではベラさんは私に会話を振るのが常になってしまった。
 
で、最初はWandernだったかな?
趣味のハナシになり、誰かがハイキングというようなことを言った。
「それはドイツではWandernというのです。Wandernnの歌もありましたねぇ。」と私を見る。
で、私は調子に乗ってとうとうドイツでの初演をやってしまう。
 
 Das Wandern ist des Mulleres Lust, das Wandern ! (Schubert/Muller)
 
思いもかけず何十年も前に歌った歌が口をついて出てくる。
「そうそう!シューベルトだったかしら?」
「冬の旅か、何か・・」   (←実は違う)
 
これがきっかけで、私はクラスでは「歌手」という看板を背負うことになってしまった。
 
その後、ハイネで:
  Im wunderschönen Monat Mai,
  Als alle Knospen sprangen,
  Da ist in meinem Herzen   Die Liebe aufgegangen.                                (Schumman 「詩人の恋」より)
 
ローレライの話題で: 
 Ich weiss nicht ・・・.
 
これは本当に Ich weiss nicht die Dicht 「歌詞のなじかは知らねど」 となり、後は日本語にした(^^)。
 
都合全3曲、ドイツリートの数々(さわりだけだが)教室でたっぷりと朗誦させていただきましたぜ。
 
ドイツ語を学習し、ドイツリート集を手元においていたのは40年前の一時期だった。
今回久方ぶりにドイツ語を再開することにしたとき、学習していくうちに昔覚えた単語が復活してくれると期待していたのだが、ドイツ語学そのものはあまり脳髄には残っていなかった。
しかし思いもかけずそのようなドイツ語の歌詞が口をついて出てき、自分でも驚いた。
 
私にはドイツ文化に憧れ、かの地を夢想していた時期があったのだ。
これが何でフランスに行っちゃったのか、そういうネジくれ方を考えてもやはり人生ってのは一筋縄ではいかないもんだよ。
 
ちょいと前に別の記事で引用したこともある、ドイツ民謡はこうだ:
  わたしは名歌手、ファりラリレ、ユッヘ!
  天下の名歌手、 ファリラリレ、ユッヘ!
  どんな歌でも歌って見せる。
  歌えぬものなし、音さえはずしゃ!
 
これは民謡「鉄ひげ博士」の2番で本歌の一番はこう:
  わたしはドクトル、ファリラリレ、ユッヘ!
  天下の国手よ、 ファリラリレ、ユッヘ!
  どんな病も治してみせる。
  治らぬものなし、治らぬほかは!
 
少しネット上で検索していくと、大体この民謡の素性が解ってきた。
ハンミュンデンの名物医者(ヤブで有名)「鉄ひげ博士」の歌である。
ちなみに「国手」という日本語はこの歌以外でお目にかかったことがない。
しかし、ネット上では日本語の歌詞までは出てこなかった。
こんな歌を日本語で知っているのは今では私とN氏だけになってしまったようだ。
フライブルグで同宿のN氏に”ハンミュンデン”まで教えていただいていたのだが、忘れていた(苦笑)。
N氏はもう10年もこの講座に毎年参加していて、今年がもう最後だろうという。
ドイツに憧れた青春を共有した世代が消えていく。
 
ところで、このベテランのN氏も見事に教室では日本人パターンらしく、あまりに喋らないので先生に呼ばれ、「どこか病気なのか?」と問われた、と苦笑して話してくれた。
 
講座の最終日にはAULA(講堂)で卒業パーティがあり、事前にオーガナイズされていた余興が終了したとき、司会のノーテン部長が「飛び入りで何かする人いる?」と会場にたずねた。
私はクラスで歌手と目されていたので、クラスの皆に歌え!とはやされた。
しかしこれは流石に無理である。アカペラでシューマンの詩人の恋なんて歌っても盛り上がらんよ。
 
しかし、ここでウチのクラスのこの男が立ち上がり、つかつかと舞台に向かって進むのである。
ロナルド君が司会のノーテン さんに何やら数言、そしてスペイン語の歌謡を朗唱しだしたのだ。

会場大喝采。さすがの才人。遊びの天才の面目躍如というか。

死んでも私の芸は、こやつの域には至らないのである。
まあ、そのような中途半端な人生なんだよな、と今更ながら自分の来し方の曲折をかみ締める。
 
外国で、学生であるということは自分自身の文化的アイデンティティから二重に開放されることだ。
「日本のオトナ」である私は「外国人の学生」ということになったとき、初めて自由に呼吸できるのだった。
できれは、このように永遠にどっちつかずの、空気のように漂いながら残りの時間を生きていたいもんだよ。
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