ノトルダーム大聖堂に行く

そろそろ夕方になってしまった。
今まで快晴続きだったが、どうやら冬型が戻ってきたようだ。
ノトルダーム寺院前の「世界のお上りさん」と合流。

ストラスブールのカテドラルのように男性的に屹立しているという印象ではなく、女性的なやわらかい印象を与える。
クリーム色の外壁と均整のとれた両塔のおかげか。

下からはよく見えないが、建物の上方に怪獣ガーゴイルが間隔を置き、四方に顔を突き出しているのが解る。


塔の付け根のあたりでは、まるで群がり集まっているように見える。
聖堂の中に入る。
この中に入るのは2回目。
観光客がうようよとざわめいていて、どうしても俗気を絶つことのできない内陣である。
しかし、もう「世界のお上りさん」に徹した私は、同輩諸氏の後にくっついてぞろぞろと入っていくのである。

内陣自体はすっきりとした好感の持てる造りだ。
しかし、デジタルカメラのモニターがちらちらし、おまけにフラッシュまでバシバシ無遠慮に光っている。
せめてフラッシュの使用くらい遠慮したらどうか、と思うのだが別に注意しにやってくる人もいない。
パリに初めて来る人は誰もが必ずここに来るだろう。
いちいち注意してもきりが無いのかも。
雑踏の中で何も特別な感興はなく、引き上げようと思った時、パイプオルガンの音が聞こえてきた。
リヨンのノトルダームバジリクのように、バックグランドミュージックか?と思ったが、本物の豊かな響きである。
パイプは内陣入り口の頭の上にあるはずだが、広大な空間の反響で音源の定位ができないほど、すべての空間が音で満たされる。
はっとして聞き入っていると、やがてやわらかいテノールの声が朗誦し始める。
ああ、夕方のお勤めが始まったのだ。
立ち去ろうとしていたのだが、内陣の中央まで行き会衆席に腰をすえる。
ひっきなしにフラッシュが光るが、オルガンとテナーの朗詠はとうとうとしてよどみない。
曲は近代フランス作家のものだろう。
歌詞はラテン語ではなくフランス語である。
よどみなく流れる音楽に導かれ、私は突然何事かの理解に達した。
観光客がぞろぞろ周回しようと、フラッシュが邪魔しようと、この夕方のお勤めは連綿と何百年も続いてきたのだ。
確立した戒律は、何があっても滞ることはない。
もし、周囲を徘徊しているのが敵兵で、フラッシュが砲火であったとしても。
どこぞの教会では入り口に見張りが立っていて、カメラはダメとか帽子を取れとか指示していた。
しかしパリのノトルダームでは、俗界の雑音にはまったく無頓着だった。
連綿と途切れることなくオルガンの響きと朗誦の声が流れていく。
私はどちらかといえば仏教徒である。
若い頃には東本願寺系の仏教合唱団に所属していた。
あるとき、釈迦の大往生を題材にした大中恩の合唱曲「涅槃」の練習をするのに夙川カトリック教会を会場にさせていただいたことがある。
カトリック教会で「南無・シャカムニ世尊・・」と歌い上げたのだ。
カトリックの度量の広さに畏れ入った思いがある。
そのような些事に煩わされることなく自らの信仰行為を連綿と続けること。
時代の流れに直にさらされるときこそ、ゆるぎないよりどころとして存在しつづけた重みを伝統は見せる。
こう思ったとき、「世界のお上りさん」で溢れかえるノトルダームのざわめきが消え、逆に静かな感動が私の心の中でざわめきはじめた。
目を閉じ、朗誦の流れに身を委ねる。・・・

うむ。お上りさんの定番観光コースもばかにはできないぞ。
ノトルダームを出ると流石の好天続きだったフランスにも冬が復活してきた気配。
石造りの都の冬は寒気も硬質である。
パンテオンが寒色の照明を受け、どんよりとした夕空にかすんでいる。

・・・カルチェラタンでも昔、色々あったのだが・・・
しかし、もう立ち去る時期である。

最後にサンジェルマン・デュプレのカフェに入ってパリの仕上げをする。


なんといってもサルトルとボーボワールが熱っぽく議論していたのは、シャンゼリゼなんかじゃなくて、サンジェルマン・デュプレのカフェだったんだよね。
すっかり夜になり、厳しい冬のパリが還ってきた。

カルチェラタンから再びセーヌを渡ると、昼間のざわめきがウソだったかのようにノトルダームが冬のパリの夜空に静かにそびえていた。

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