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[台南高雄安宿紀行]

最後に釜ヶ崎オデッセイ

2016/9/7(水)15:7
8月30日(火)
七賢三路237ホテル一階のしゃれたコーヒーショップでの朝食。


ところがカウンターのおネエさん、廊下にいた客室係りのおニイさんも英語まったくだめ。
カウンターの給餌係りおネエさんが何か言い、おニイさんが飛んでいって、フロントから英語喋れるおネエさんをわざわざ呼んでくる。

カウンター嬢が質問をし、フロント嬢が英語に直して私に伝える。

1) TEA or COFFEE?   コーヒー! フロント嬢が中国語で「珈琲」と通訳。

次の質問が私に通訳される。
2)HOT or ICE?      ホット!  フロント嬢が後ろに向いて「熱」。

え?まだあるの?
3)SUGAR or NOT ?        ブラック! 「無」と通訳し、笑顔でフロントに帰っていく。

残された私とカウンター嬢も笑顔でうなずく。 やれやれ・・・!
こうしてやっと熱いブラックコーヒーが運ばれてきたワケだ。

この普通のスープ・コーヒー・サンドゥイッチ・卵の朝食はなんだかもう懐かしい。
安ホテルの物量ごたまぜ朝食ビュッフェよりこっちの方がよほどいい。

もちろん、食後にカウンター嬢に「おいしかったです。ありがとうございました!」と。
これは通訳無しで了解した模様(^^)。

チエックアウトまで近辺散歩。
鍵をフロントに預けると、英語ダメ兄さんが「バイバイ」と手を降る。
いぶかしい顔をしてしまったが、たぶん「いってらっしゃい!」のつもりだったのだろう。
なんと、初々しい三ツ星ホテル。


地区で一番大きな宮


天井の無数のランタン。

市場の向い側の宮。

川沿いの宮に住宅隣りの宮。
なんとお宮さんの多い地区か?
あらゆるお宮さんに手を合わす人が来、灯と供物の絶えることはない。




街区の向こうに緑の山が見えるのものどかな感じ。
高雄はこの辺りが潜伏するに恰好では?

私好みの露地にも事欠かない。

歩道はウチの仕事場。

本日も何かの集会があるらしく路上宴会準備たけなわ。
11時、ホテルチエックアウトし、歩いてMRT駅まで。

こんなバイクが歩道を走ってるのを見ると、一体ここはどこの国じゃ?状態。

愛河に近く、駅の反対側は港湾沿い藝術特区に連なっている。

なかなか高雄も住み易そうな。



地下鉄で直接空港へ。35元

この辺りの空港接続の良さも高雄の利点。
やはり台北より高雄・台南が私には合ってるようだ。
関空便は14:00発。
チェックイン開始は12:00より。

私がPEACH航空のカウンター前列に並ぶと同時くらいにチェックイン開始。
並んでいるのは台湾の若者が殆ど。
高雄の若者にも関空へは非常に行きやすい。
台北よりも大阪の方が近いのでは?

出国カウンターでは左端の「公用・特別・金持・VIP」専用別枠待ち列なしカウンターに例の「快速通関證明証」を見せ特権的通過。
桃園では殆どが所持していたようだが、地元若者が殆どの高雄では私だけ。


出国して直ぐのMOREラウンジに職権乱用入手した世界金持&特権階級クラブ会員証を見せ入室。
どうやら12時からの営業らしく私だけ。
入り口カウンターから制服嬢にかしずかれ、席まで案内されて飲み物の好みを聞かれ、コーヒーを運んできてくれた。ちなみにもちろん英語はばっちり(^^)v
空港ラウンジで個別に案内されたのは初めてだった。
高雄大阪便14:00発までビール飲んで焼き芋喰ってルーロ―飯食べて過ごす。

さらば高雄。



珍しい侵入角度の飛行だが、だだいま、関空。

ピーチ機内で南海の普通切符100円引きで買い、財布から100円玉をおとしてしまい、最後まで機内に残って座席の下探索。
発見できず、乗務員のおネエさんに「100円玉見つけたら、ソレわたしのンだからね!」とことずて降機。


最後に降りたのだが、先に出て並んでいる第2ターミナル入国審査列を後目に入国自動化無人ブースを一人だけ特権通過(^^)v

気温25度。
台湾から来れば何じゃソレ級の、風吹き渡り大阪夕刻の大気爽やかそのもの。

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南海車内の「新今宮」のアナウンスであわてて降車し、改札を出て気が付けば「天下茶屋」じゃないか! 「天下茶屋、次は新今宮までとまりませ〜ん」だったのか(^^;
ま、いいや。
どこかで食べて帰ろうと思ってたが、新今宮で乗り換えてしまうとどこにも降りられない。
では、天下茶屋から新今宮まで歩くことにするか。

おい!
正気か?

いや、しかしもう最後だし。
さっぱりした住宅地になっている天下茶屋街区。
がらんとして何にもない花園商店街。
私が初めて金を稼いだのは花園市場のイズミヤの荷物運びだった。
スーパーイズミヤ一号店。
子どもの頃には花園市場の入り口の古着屋さんだった。

閑散とした萩ノ茶屋商店街。

ガード下の浜田君ところの食堂の跡かたもなし。
かろうじて入り口に昔のバクダン飲み屋の名残の大衆食堂。

商店街のアーケードは健在だが、見えているのはカラオケスナックの看板だけ。
この時間なのに人通りなし。


菓子屋の黍原君(静岡大)、時計屋の藤野君(阪大)、額縁屋の米田君(京大)の店ももうない。
地域の中学・高校の同学年だったが、米田勇二はもう死んだとか去年向野君に聞いたなぁ。

商店街中ほどに一軒だけ開いていた中華食堂。
50年前からここに在ったような気が。
中華丼550円。

入り口上のテレビが阪神の負けを報じるのをシオに店を出る。
いや、別に阪神フアンでもないが、店の大将が熱心に見ていて邪魔するのもナンなので。

西成警察暑前通称釜ヶ崎銀座裏。
道路の閑散としたウソくさい綺麗さよ。
かろうじて屋台風の店一軒。
とても通りすがりの私が立ち寄れる雰囲気ではない。
台湾では屋台飯は普通だったが、日本ではとても普通じゃない。

閑散としているが雑然ではない。
しかし、どこかウソくさい。

格安ドヤも健在だが、人影はあまりない。

父は戦後大阪に出、この地区の周辺の国道沿いの店舗に住み着いた。
隣りは総連系朝鮮銀行、裏は鶴見橋本通皮製品関連地区。
しかし、白鳥君が天龍湯の向いの朝田金属だったとはねぇ。
今から思うと何でココ?級の選択だが当時はそういうのが一般的な暮らし方だったのだ。

釜ヶ崎近辺は暑苦しい、うるさい、小便臭い、汚い町だった。
この町への反発が私の一生を決めてしまった。
クラシック音楽やヨーロッパ文化への憧れ。
終にはフランスの町に移り住む。



しかし、今は市場の喧騒や混然と立ち並ぶ屋台、露地裏の雑多な生活臭、町の雑然としたエネルギーの中にいると妙に心が安まる。
日本やヨーロッパに蔓延する、どこかとりすましたウソくささが鼻につき、翻って南アジアの町のカオチックな生活感の生の露出が何故か好ましく思えるのだ。

思い返すと、3年前のザールブリュッケン滞在で、フェルクリンゲン製鉄所跡のような無統制で勝手なエネルギーの発露も結構美しいじゃないか、という視点を得たのがきっかけだったのかもしれない。
大阪に帰ると、この町の制御不能のガラの悪さも、それはそれで面白いと初めて思えたのだった。

そして、昨年のフランスの社会情勢上の急激な末期的様相の如実な発露が来る。
西洋の傲慢そのものの、単一的価値観への妄信と徹底的な異端排撃。
正しいもの以外を徹底的に排除することがヨーロッパの美意識の源泉だったのだ。
整然と一元的に統一された法治国家の理念のような、異端を絶対に許さないヨーロッパの美意識。
それはやはり私本来の感覚ではない。

閑散とした南海阪堺線霞町駅
・・・と思ったら動物園前駅ですか
一昨年より通い始めたベトナムや台湾の下町の暮らしは、いつでも私が溶け込んでいけそうな不思議な安堵を与えてくれた。
子供の頃、何も考えずただ遊び呆けていたように、自己規制することもなく、誰に遠慮することなく。

「法律というのは、普段は守らなくともよいものなのです」(吉村慎二「日本人と不動産」)

アジア的混沌とはそのような寛容性のことなのだ。

今、私はあれほど反撥し、一生かけて嫌い抜いた「釜ヶ崎」と和解したいのではないのか?
もう殆ど時間は残っていないのだ。

私は日本、この世界、自分自身、つまりこの世と最後に和解しておきたいのだ。
生きていたことが別にそれほどイヤだったわけでもないんだよ、と。


(台南高雄安宿紀行 完)
注:旅行出発時の個人的情況)
この旅行直前に脳ドックを受診、MRIでは明らかに左脳幹動脈が切れていた。
旅行中は脳梗塞でいつ倒れてもおかしくないという宙ぶらりんな心理状態で。
家に居てもそのことしか考えられないので旅行に、ということでもあった。
旅行後直ぐ血管造影剤で脳血管の精密検査を受けた。
血管は縊れて細くなっているが、血流が途切れるほどではないとの診断。
すんません、もうしばらく居ときます。
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