NOVA問題(3) ちょっと待ってください山中さ...
[時爺放言]

人類はどこまで謙虚になれるか?(1)

2007/12/10
本の書評は別のところ  に掲載しているが、これからのハナシのマクラとしてここで引用する。

スティーヴン・ウエッブ「広い宇宙に地球人しか見当たらない50の理由 フェルミのパラドックス」                                松浦俊輔訳 青土社 2004

ちょっとキワモノ的なタイトルにしては大変充実した内容で、私が科学啓蒙書で味わいたかった楽しみが見事に網羅されていた。つまりは知的興奮というヤツである。
そして読後にも著者に教示された知識は風化せず、私の人生規模の確信にまで至っていた。

我々は別に神によって創造された特別な存在ではなく、ただのふつーの生物で、宇宙に五万とある(本当はもっとある)ケチな惑星のひとつで進化した。だから全宇宙の星の数と経過してきた膨大な時間を考えると、宇宙には知的生命体がうじゃうじゃいるハズだが、しかし「みんなどこにいるん?(Where is Everybody?)」、何も見あたらんではないか、というのがフェルミのパラドックス。

この回答は今まで数多く提出されているのだが、著者は代表的なもの49をあげ、それぞれに論理的な検証を加えていく。関連分野は宇宙物理・地球物理・テクノロジーはもちろん、パラドックスを含む論理学、進化論、生命科学、言語学に達している。もちろんSF分野の著者の説も取り上げていて、非常に刺激的な発想にも触れることができる。それぞれの仮説に肉付けしていけば、そのまま充分中身の濃いSFのネタとして使えるハズである。何よりも全論評を通し、著者の「知的に公正であろう」とする態度が当方には快く、ここまで公正で中庸で、しかも個人的なあいまいさも自覚した見事な論理の展開に、思わずわが意を得たりと快哉を叫ぶ。

いやぁ、この人は本当に現代では得がたい、まともな感覚の持ち主である。とそこまで読者の信頼を得、満を持してという風に最終章50番目の解法として著者自身のモノを掲げるのである。

解50「フェルミのパラドックスは解決した。」いいですねぇ。笑っちゃいますね。

最初からパラドックスでも何でもないんだ。無難で無理の無いまともな論理で、言語を取得した人間という生命体が、全宇宙の全時間の自然・偶然の試行錯誤で現れる確率を計算していくのである。
計算結果、確率はゼロだった。

我々は宇宙にかけがえの無いたった一種の「電波望遠鏡を扱える」生命体である、というのが著者の結論だ。
まるで神に創造されたかのように、人類はこの宇宙に独異に存在しているのである。

しかし、この結論をしていわゆる人間至上主義・あるいは選良思想のような狂信を想像してはいかんのである。私が本当に感銘をうけたのは、「宇宙にはわれわれよりもっと優れた知的生命がいるはずだ」という考え自体が人間の傲慢にもとづく、と明確に指摘する著者のバランス感覚である。

いわれもない悪しき進化思想がある。生物は時を経てより高次な存在になり、地球では最後に人類が出現し、進化の頂点に君臨している。
さすれば、他のもっと大きな時空連続体にはもっと高次な生命体がいるはず、となる。
しかし果たしてそうか?

進化の果てにすべてが人間型に収斂していくと結論するのは大きな欺瞞であると著者はいう。
細菌はこの先何億年経ったところで人間型に収斂していくことはない。
細菌型で安定して存在を続けるだろう。地球における進化のチャンピオンはその数からすると細菌かもしれない。

細菌も人類もそれぞれ自分のニッチに適合するよう進化した結果であって、今更細菌が人類型知性を獲得する必然性はない。長い時がたてば必ず宇宙に人間型知的生命が発生するという思い込みは論理的必然ではないのである。

人類型生命にしたところで今まで地上に出現し、現人類よりも長く生きてらしたクロマニョンさんやネアンデルタールさんも自分の生活を変えていこうとはしていなかった。絵を描いたり道具を使用したが、別に次々に流行を追うことはなかったようだ。ネアンデルタールさんなんか、大脳の容量は今の人類より大きかった。
一体あのヒト、その膨大な時間に何を考えていたのか気になりませんか?

今の人類だって、こんなに急激に考え方や生活を変えはじめたのは、つい最近ではなかったろうか?現人類の最古層に属するとされるアボリジニーは1万年以上も生活のスタイルを変えていない。

科学技術を発達させ環境を変えていくことは本当に必然だったのだろうか?

フェルミのパラドックスは一見謙虚な見方に思える。

「我々は特別な存在ではない。だから「みんな」(同類)はどこかに居るハズだ」

しかし、この論理の中には自分達の感覚が「普通」であって、唯一の正しいものだという傲慢が入り込んでいる。

著者の結論はもっとパラドクサルに聞こえるのだが、こうなる。

「我々は特別な存在ではない。大多数の中のただのひとつにすぎない。
だから我々しか居ないのだ」

「普通」は「多様」なのだ。
NOVA問題(3) ちょっと待ってください山中さ...