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[ピアノのお稽古] |
左手のためのピアノ曲 |
2007/6/15(金) 午後 5:58 |
館野泉さんの演奏を先週テレビで見た。 古くから活動しているピニストで、特にフィンランドとの 関係では渡辺暁夫さんと双璧をなす日本人音楽家である。 私も館野泉編著「シベリウスピアノ曲集」を弾いていた時期もあった。 しかし2年前に病で倒れ、半身不随になりながらも自由な左手だけで 演奏活動を再開し、その音楽家としての志が感銘を与えている。 ・・といっては失礼なのだ。 別に志が高いから、すばらしい音楽家であるという理屈はない。 「制約の中でもこれだけ弾ける」ということが感銘の正体なら、 それは曲芸の世界であって、音楽とはあまり関係はない。 以前私は左手のためのピアノ曲を収集したパウル・ヴィットゲンシュタイン に触れ、ラベルの「左手のための協奏曲」を通常の演奏者がわざと 右手を使わずに演奏しているのを見た印象を書いた。 「無理して左手だけで弾かなくとも両手で弾けばいいんじゃ?」 というものだった(^^; http://hemiq.a.la9.jp/aprevu/coincide.htm#010 館野の番組に出演していた「左手のためのピアノ曲」の作曲家 吉松隆のコメントが非常に印象的だった。 「当初、左手だけという制約に難航した。 しかし、工夫していくことで新たな作曲技法や 新しい音楽構造自体を創造していくことができた。」 という主旨だった。 ある制約が生じ、それを克服することで新しい技法なり世界なり が開けていく。 これは胸のすくようなきれいな技術突破のイメージである。 岡田暁生(監修)「ピアノを弾く身体」春秋社 2003 という本がある。 私の書評↓ http://hemiq.a.la9.jp/books/2005.html#071 この中に、たとえばヴィルトオーゾの作曲家アルベニスの技法の おもしろい分析があり、両手で弾けばなんでもないフレーズを わざと左だけで弾かせる指定をしてある箇所の指摘があった。 ピアニストの肉体の限界ぎりぎりの指の跳躍をさせることで、 音楽にまさに肉体的な緊張感を与えている、というのだ。 音楽の演奏には譜面には表れない心理のドラマがある。 たとえば事前にシーケンサーで打ち込んだ完璧な音符データを MIDI音源で流れるように再生しても、そういった心理的アヤ は生まれてこない。 実は↑そういう無機質な音楽も嫌いじゃないんだけど(^^; 音楽の演奏というのは、「音の組み合わせの面白さ」を 完璧に再生させようとする受動的な活動ではなく、 まず第一に演奏家の肉体が演じるドラマといえるのである。 そうなんだよね。 だから左手のピアノ曲は「障害者のための福祉活動」 なんてものではなく、それ自体で新たな音楽の可能性を試す、 独立完結したひとつの音楽分野なんだよね。 そうなんだよね。 だから、何時つっかえるかと聴衆に冷や汗をかかせ、思いもかけない ところで転んだりする、アマチュアのピアニストの存在は 音楽宇宙への感動を限りなく拡げいく原動力足りえるのである。 と屁理屈こねて、ヘタなりに今日も練習しよう、っと(^^)/ |
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