いい加減にやめて 大雪の日はこたつ..
[団塊の段階的生活]

いい加減にやめてください、NHK。 (2)

2014/2/14(金) 午前 4:41
(2)偽ベートーベン事件(注1)
 
作曲家・伊東乾氏が佐村河内守・本名松本智津夫(注2)のゴーストライターであると公表した新垣隆氏の人物像を書いている。
 
偽ベートーベン事件の論評は間違いだらけ
あまりに気の毒な当代一流の音楽家・新垣隆氏
 
もともとこの事件の推移で事件後:
1)NHKが佐村河内守・本名松本智津夫賛美番組を放映し、素早くNHKオンデマンドから削除したこと
2)魂の交響曲第一番「HIROSHIMA」のCDを販売会社が絶版にし、ネット配信もすべて削除したこと
3)その他、賛美者が「ダマされた」風のコメントを軽く出しているのを(どこぞ の合唱団で)目撃したこと
等、その三流人物ぶりを少しばかり冷笑していた(むはふはへ)。
自分たちがいかに二流の人物であるかを実感してくれれば少しは事件に意味があったと思ったのだ。
 
私はこの佐村河内守・本名松本智津夫作として世に出た新垣氏の交響曲を聞いたことはない。
しかし、多くの論評から察するに「耳触りのよい」マーラー風の管弦楽法で上手に書かれた「思わせぶりな」内容のエンターティンメント曲である、と思われる。
 
実を言うと私はそういうオーケストラ曲が大好きで、何を隠そう大のB級グルメクラシック愛好家なのだ。
例えば、ツィムリンスキーの交響曲。
 
マーラーの同時代人でアルマ・マーラーとも男女の関係があった人物。
その時代には当代一流の交響曲作家と目されていたのだが、今では誰も演奏しない。
私は一度だけ聞く機会があり、その作曲技術の確かさ、内容がいかにも高邁風なことに関心した。
しかし、マーラーと比較すると違いは明らかだった。
ツィムリンスキーは「耳に快い音楽」を作る技術だけがあり、音楽史に新しい何事も付け加えることはなかったのだ。
 
だいたいB級(グルメ)クラシックのイメージがつかめましたかね?
 
私は二流の人物としてB級クラシックの大フアンである。
しかし、B級クラシックはそう何度でも聞けるものではない。
つまり数回聞けばもう何も新鮮なものはない。
 
実はそれはベートーヴェンの「第九」だって似たようなもので、各楽章のテーマを聞き取り、曲の構造・構成を見知ってしまえば、もはや新鮮さはない。
数年前には合唱という切り口で3回ほど接してみたが、それ以上続けるほどの魅力はない曲だった。
100年以上前の曲なら、どうしても今の我々の感性からするとズレてしまう部分が残る。
果たして現在本当に「全人類皆兄弟」と大らかに歌い上げてコーダで盛り上がり、毎回感動していられるものだろうか? 
ただ、そのような大時代的誇張の演技としては楽しかったのだが。
とても現代のわれわれが真面目に取り組まねばならないような内容ではない。
 
佐村河内守・本名松本智津夫の交響曲が好きだとして、音楽として気に入ったのならずっと愛聴してはどうか?
「騙された」のは音楽ではなく「耳の不自由な音楽家が作曲した災害の犠牲者を悼む鎮魂の曲」というメッセージに、でしょう?
音楽そのものには変わりない。
あなたの耳に快いエンターティンメントだったのでしょうが?
それとも、あなたは音楽ではなく、そのキャッチコピーやメッセージに感動していたに過ぎず、その演出を音楽の内容そのものと誤認識していた?
クラシック音楽を聞きに行く方には何故かそんな方向違いの、音楽とは関係のない装飾物に反応しているに過ぎないのに、それが音楽の本質であると信じているような方をよく目撃する。
もちろん、バロックやクラシックの時代の古色、ヨーロッパの雰囲気というような装飾自体を楽しむのもクラシック音楽鑑賞の内。
別に作曲者の意図が理解できなくとも別の聞く楽しみは常にあるのだが。
 
そんなキャッチコピーや作者の有名無名というような虚飾にかかわりなく、好きな音楽を聞くB級グルメクラシックフアンになりませんか?
音楽以外のものを音楽の内容だと信じて疑わないなら、残念ながらあなたは三流の人物であると判断させていただきます。
そこの、歌う度に奥の深さに感動を新たにすると吹聴しまくっている第九歌唱歴20回のおジさん、それ本当に音楽の感動なんでしょうか?
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伊東氏の記事を拝読した。
これは佐村河内守・本名松本智津夫の三流性について書かれたものではない。
第一流の音楽家、新垣隆氏をこのどうしょうもない三流の人物で汚染されつくした偽ベートーベン事件から救い出そうという真摯な思いで書かれた記事である。
 
私もこんな茶番は単に冷笑、じゃない揶揄してるだけで済まそうと思っていたのだが、この伊東氏や新垣氏のことを知り、どうしてもこの件について書き留めておかねば、という思いになった。
 
それでもやはり一流の人物はいる。
 
伊東氏の記事で吐露されていたプロの作曲家としての生の心情は、長年の私の他人には口にできない思いや疑念を氷解させてくれた部分がある。
一流の才能を持った人物はどのようにこの三流の人物に満ち溢れた俗界を生き延びてきたのか?
 
新垣氏は「調性」のある曲を自分の名で発表することはなかった。
いわばそれは職人細工、単なる余技で、作曲家としての本当の仕事は無調の、いわゆる「現代曲」なのだ。
しかし、「現代曲」では演奏される機会もなく、聴衆もほんのわずかである。
音楽家の習性としてやはり大ホールでオーケストラの自作の演奏を聞く喜びは押さえがたい。
ゴーストライターとしての作業は週刊文春の三流人物記者が邪推するように「金」や「名声」の為ではない。
新垣氏自身も述べているように「自分の楽しみのため」だった。
たまたまの機会がこの一流の作曲家に職人芸を駆使する趣味の時間を提供したという様子だったのだろう。
 
才能に溢れた作曲家が、こんどはちょいとマーラー風に盛り上げてやろうかな?なんて自分のオーケストレーション技術を嬉々として駆使している姿が目に浮かぶ。
現代の一流の作曲家なら100年前のあらゆるオーケストレーション技法に通じているのは自明のことなのだ。
しかし、そんな曲に自分の名前を付けて発表するような俗気はもともとない。
金や名声が目的ではない。
そんなところで大衆に迎合するようならたちまち二流になり下がる。
 
クラシックの音楽家の中にはそのようなストイックな本質的な志向を持った一流の芸術家がやはりいる。
「ゆず」様達のようにもともとB級音楽に留まっている世界とはくっきりと違った厳しい感性の世界。
ジャズやラップやロックにもそのような意味での一流の音楽家は居る。
しかし、ゆず様達の音楽にはこのような時代を超えるような芸術家としての気概は一切ない。時代に迎合するだけの、はやり歌の世界でのことだ。
 
それはそれでいい。
だって私もB級音楽フアンの二流の人物なんだから。
ただ、B級音楽しか聞く耳がないのに、一流の音楽通であるかのような自慢話をして私を閉口させる三流の人物があまりに多い。
 
今回伊東氏の発言で本物の作曲家がどういう思いで作曲活動をしているのかよく分かった。
作家の本当の感性は既に無調でしか表現できない現代という場所にある。
しかし、大多数の聴衆は調性のある100年も前の音楽形式しか理解できないのだ。
このような圧倒的な違和感に満ちた世界の中で、自分の芸術家としての感性に忠実に生きていくとはどのようなことだろうか?
伊東氏が語る作曲家・新垣隆の処世法はその一つの典型に思えた。
しかし、俗界の三流人物達はその才能を悪用し、遂に芸術家を破綻にまで追い詰める。
金でもなく、名声でもなく、自分の感性に従って真摯に生きているということが全く理解できない三流の人物に満ち溢れたこの世界では。
 
 
で、そういう三流人物を慈しみ育んでいるのがNHKである。
 
N響の定期の選曲をみれば大半が100年以上前の曲なのが分かるだろう。
昨年はベルリンフィル・ディジタルコンサートの会員になり、本当にコンテンポラリーな曲に接し、深く衝撃を受けた。
   ⇒ 世界のエトス(J.ハーヴェィ)の重層構造 (1)
 
NHKが文化を牛耳っている現代日本ではそのような機会が日常生活からは絶対にやってこない。
 
なにしろ:
    HKスペシャル「魂の旋律〜音を失った作曲家〜 佐村河内守」
 
なんて番組を私の支払っている視聴料で放映するようなことがこの国の「公正・公平」な公共放送で育んでいる文化であるのだから。
三流人物がどんどん輩出するのも道理、実にありがたいことだ。
 
音楽の芸術性は一切問題にはならない。
問題主義、というか、とにかく分かりやすいメッセージがあればいいのだ。
被爆者の子息・聴覚障害の作曲家、偽手のバイオリニスト、震災県在住の作曲家による復興ソング、、、
 
NHKのいう公正・公平な公共放送という文化の欺瞞。
 
どのみち我々はとうてい一流ではない、中途半端な感性や知性しか持ち合わせていない二流以下の人物である。
だから勝手に自分で思った通りのエンタティンメントを放映し、それが好きな人が享受すればいいのだ。
しかし、自分は自分の感性で判断して放映しているだけ、決してこれが一流のもので、万人が必ず視聴しなければならないというモノではない、という留保をつけて。
しかし、強制的に視聴料を取って勝手に押し付ける「公共放送」ではあり得ないのは自明のことだ。
そのような自己誤認、二流なのに自分が一流であると誤認している者を私は三流人物であると言っているのだ。
 
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一流・二流・三流とは私の定義(hemiq 2011)なのだが、少しく安直(^^;
なので最近開発した別のシステムでの分析を追加しておこう。
 
 
「認識の地平線」:どうしても越えることのできない自分の認識の限界。
 
大半の者が「認識の地平線」の存在に気が付いていない。
それどころか、全ての者は自分と同じ「認識の地平」に住んでいると思っている。
実際には各自は全て固有の「認識の地平」にいて、それぞれが自らの認識する宇宙が唯一の存在基盤であると「天啓的に(一切の論理考証を経ず)」考えている。
これを三流の人物の定義としておこう。
 
学習するということは自分の「認識の地平線」がどこにあるのか確認する作業である。自分が如何にバカであるかは学習によってしか認識できないのだ。
そして、「認識の地平線」をかいま見た者はその地平のさらに向こうに一切の自らの感知を超えた存在の気配を感知する。
 
自分には絶対に越えられない地平がある。
しかし、越えられない地平の向こうからは何の作用も自分には及ぼさない。
だからやはり自分の認識の地平の中で住む以外にはない。
 
それはまったく三流の人物とおなじ場所である。
しかし、自分の「認識の地平線」の向こうにある気配を感じた者は自らが限られた存在にしか過ぎないということは認識できるのだ。
そして、自分には及びもつかない存在の気配が絶えず自分の「認識の地平線」を意識させている。
自分と他人が違う「認識の地平線」を持っていることを正しく自認しているような人をここでは二流の人と定義する。
 
では一流の人物とは何か。
それは二流の人物の認識が及ばない気配そのものである。
だから常に相対的に二流の人物「より上のレベルの人」と定義される者で、絶対的な一流があるのではない。
しかし、二流の私から見れば及びもつかない能力でいとも易々と他人の認識の地平線を超え自由に宇宙を飛翔しているような人物である。
 
例えば、プロの作曲家が私には理解できない感性で創造するのだが、私の地平に降り、完璧なB級エンターティンメントも作ってしまえるような能力を持っている、というような。
つまり、この人は二流から見れば二流に見え、三流から見れば三流としか見えない。
「認識の地平線」を見ることのない三流の人物からは全ての人が三流に見えるのは定義上からは自明なことだが。
 
しかし確実に二流の私には及びもつかない地平線の彼方にいる者がいる。
一流の人物にも「認識の地平線」はあるのだ。それは私の宇宙が測れる地点からは永遠にうかがい知れない広大な地平だとしても。
 
自分は一流であると自覚できる人はいない。
認識の地平線をどうしても越えられない人間であるかぎり。
ただ三流の者だけが自分が一流であると自分で言うだけで。
 
より優れた一流の人物がやはり存在している、と悟れる故私は立派に二流人物である。
常に自分より優れた存在がいる。
その認識が自分の三流性をそぎ落とし自分の「認識の地平線」の存在を意識させてくれる。
 
そして今その私は確信をもって言うのだ。
 
三流の人物のための三流の人物による三流のシステムNHK、そのようなものに私は強制的に加担させられたくはない。
   
    NHKはもういい加減解体してはどうか?
 
 
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注1)ベートーベンの標記:伊東乾氏の記事にもあるが、まさにベートーベンと標記する他はない三流人物界のお話である。
 
注2)佐村河内守・本名松本智津夫:サムラカワチのカミではない。
伊東氏はその名を標記するにも抵抗があるので「偽ベートーベン」と標記したとしているが、私は直観的に本名松本智津夫と見えたので面白がってそう標記する。
このあたり、一流の人物と二流の差が厳然と出ているだろう(^^;
 
いい加減にやめて 大雪の日はこたつ..