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[静かな生活]

「死の発明」が自意識を発生させた (進化論批判序)

2021/8/1(日)0:15

ダーウィン進化論はいかにも資本主義社会黎明の精神に合致していた。
突然変異による多様化と適者生存論は資本主義商業社会の基本理念とピタリとシンクロナイズしているようだ。

しかし今私は最終的にこの「進化論」という理論の枠組みがいかに誤謬に満ちているのかを痛感するようになった。
いや、進化論自体は一つの合理的な説明であることを否定するものではない。
私が強く確信しているのは、ダーウィン進化論が適用できる場には大きな限界があり、さらに言えば非常にローカルで矮小な範囲の「生物」にしかこの理論は成立しない。
それは明確に個体が「死ぬ」特性を持った生物、つまり従属栄養生物(動物)にだけ厳密に適応され得る理論なのだから。

ダーウィンの時代はもとより現在でも人間を最上位とする動物が地球のドミナント種であるという意識を無自覚的に持つことが大多数の例だと思われる。
それは自身が人間であるから、という極めて矮小な「人間原理」による。

この西欧的な人間中心観がどのような誤謬をもたらすかの典型例が「宇宙にはきっと(我々と同じ)知的生命が存在する」というまったく根拠のない思い込みだ。
この思い込みが何に由来するのかを指摘し、私は以前「人類はどこまで傲慢になれるか」という記事を書いた。
今回はその記事から出発していく私の進化論批判の帰結をぜひとも記述しなければならないと思っている。

更に私の生涯的規模での問題意識の根源である存在論の生命版ともいうべき「自意識の発生」のメカニズムが「死の発明」(=種としてのアポトーシス)に起源するというアイデアを最近確信するようになった。

アポトーシスが多細胞生物の機能・戦略であるのは明らかで、単細胞生物では論理的に成り立たない。
真核生物が多細胞化するとき、細胞共生、あるいは併合作用が生じる。
このとき、共生(共存)と競合(排他)という言語概念上矛盾した生命機能が生じていく。
同時に共生者と敵対者の区別能力が生命活動の必須能力になる。
「殺す」ことは独立栄養生物や他の動物を摂取しなければならない生命体として生来の能力だ。
生きる為に「殺す」テクニックは遂に不要共生者にも適用されていく。
本来の生命体である原核生物真細菌類には「死」という機能はない。
「適者生存」という法則性は「死」を生命活動の戦略として採用した生命にのみ厳密に適用できるのだ。
この死の発明が個体のレベルで「死すべき自己」という概念、「死」に外周を限定され、限られた生としての個の意識を生じさせる。
  ・・・

しかし、アイデアを孕むのは一瞬の天啓だが、記述するため検証し論理構成を組み立てていくことは今の私には至難の技になっている。 もうトシじゃけに・・・

手始めに是非2007年に書いた時爺放言「人類はどこまで謙虚になれるか(1)」を読んでいただきたい。 これが(1)なのはその時から続編を書くつもりだった。
あ、タイトルは「どこまで傲慢に」じゃない、「どこまで謙虚に」だったか(^^;
私の進化論と自意識の起源への思考の旅はそのあたりから連綿と続いていたのだ。

「進化論批判と自意識の起源」というタイトルになるかどうかは未だ決定していないのだが、少しずつでもまとめつつ書いていかねば、と思っている。
一章ずつでも纏まり次第、別の特設アーカイブにアップしていくつもり。

実はサッサとこの欄で骨子を書いてしまうつもりだったが、私の構想は多岐且つ膨大な知見に支えられていて、そんな簡単に書き切ってしまえないことが次第に明らかになってきた。
とにかく、これを私のこれからのライフワークとする予定だし、密かにノーベル賞も意識しているのであるからして。
と、今はここに予告し、自ら叱咤激励、老骨に無知鬱ところである。

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